ユンヒへのレビュー・感想・評価
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岩井俊二監督の「Love Letter」に着想を得、韓国人監督が小樽でロケした珠玉作
未鑑賞の方に、物語の中で明かされる“秘密”に触れることなく魅力を伝えるのが難しい映画だ。実は予告編でも当サイトの解説でも、人間関係をめぐる“ある要素”が明示されているのだが、個人的には、その要素を知らずに観るほうが新鮮な驚きや気づきを得られてベターだと思う。とはいえ、その要素を苦手とする人が知らずに観て後悔する可能性もなくはないので、単純な正解はないのだろうけど……。
監督は韓国で1986年に生まれ、2016年に長編デビューしたイム・デヒョン。中年女性を主要人物とするストーリーを出発点として脚本に着手し、のちに岩井俊二監督作「Love Letter」が好きな友人に誘われて小樽を訪れたことで、冬の小樽をロケ地にすると決めたという。
小樽で老母と暮らす友人ジュン(中村優子)から、韓国で暮らすシングルマザーのユンヒ(キム・ヒエ)に一通の手紙が届く。手紙を盗み見た高校生の娘セボム(キム・ソヘ)は、知らなかった母の一面に触れ、母と一緒に小樽を訪れることを思い立つ――。
私信を第三者が読んでしまうことから、長年止まっていた人間関係が再び動き出す構造は、「Love Letter」はもちろん、同作への“返信”として岩井監督が手がけた「ラストレター」(および同じ原作を中国人キャストで撮った「チィファの手紙」)とも共通する。ついでながら、最近の映画では濱口竜介監督によるオムニバス作品「偶然と想像」の第3編「もう一度」と、描かれた状況に似た部分がある。
大まかなくくりでは女性映画と呼ぶことができるだろうが、もちろん男性観客が観ても感動したり学べたりする点は確かにある。さらには、本作で言及される特別な関係を、普遍的な人と人との関係性に置き換えて考えることもできるはず。伝える勇気と、受け止めようとする心が、たとえ少しずつでも広がっていき、生きやすい世の中になることを願うし、「ユンヒへ」のような映画がきっとその助けになると信じる。
人の手紙を勝手に出す駄菓子屋の婆さん(わかる人はわかる 笑)その手...
人の手紙を勝手に出す駄菓子屋の婆さん(わかる人はわかる 笑)その手紙を盗み見る不倫おくさま(夫婦の世界)の娘。
昔の友人に何があったのか?気になる。なんやねん、なかなか進まない、イライラする。へっ、そういうこと。多様性ってやつね。なんか期待と違った(笑)
韓国と日本の両面展開
キムヒエ扮するユンヒは離婚していたのに元夫が家に押しかけて来ても相手にしなかった。ユンヒにはキムソヘ扮するセボムと言う高校生の娘と住んでいた。ユンヒは娘と手紙をくれた友達のいる日本へやって来た。
韓国と日本の両面展開で最初訳が分からなかったから途中で辞めようかなとも思ったがかろうじて踏みとどまった。日本に住んでて母親が韓国人だということを隠して生きて来たようだ。在日韓国人は皆そうなのかな。ユンヒの娘が段取りしてふたりが会う事になったな。意図するところがやっぱりちょっと分からないかもね。若い頃の同性愛って言う事か。
ことばの刺繍のような
雪景色を背景に、韓国語と日本語が縫うようにして交互にでてくる。まっしろの布に、静かに丁寧に少しずつ刺繍されるみたいに。緻密ではなく、むしろ余白の美しさが際立つような。ひとつのピークとなる場面は言葉すらなく、その潔さが良い。
高校生のカップルはほんとにかわいい。
直してもらった手袋かわいい。
いまちょうど、母世代と娘世代の中間くらいを生きてるけど、もう過ぎてしまった時間と、これから来るかもしれない時間を同時に見ている気がした。
あまりに素敵なまさこおばさまを見ていると、歳を重ねるのが楽しみに思えた、気がする。やっぱりまだ怖いけど。
手紙はきっかけ、太陽の光が雪を溶かしていく
なんとも岩井俊二っぽい空気感。岩井俊二に憧れてまーす的な作品だなぁ〜って思ってたら、「Love Letter」に着想した作品だということを観賞後に記事で知りました。なーるほど。って感じです。よく出来ている作品ですがその分、何だか既視感を感じちゃったのが残念だったかな。でもでも、お話はよく出来ています。
舞台の一つとなる小樽のシーンがとても良いですね。静寂の小樽にシンシンと降る雪が、ユンヒとジュンの関係を表しているようです。「雪はいつまで降り続けるのか?」って叔母の言葉が切ない想いを感じます。雪の中、氷漬けとなったようなジュンの心があったのでしょうね・・・なぜか?ユンヒは離婚して娘と二人暮らし、届いている手紙・・・なぜか?まさに雪が溶けていくように解けていくストーリーがとても優しいです。
雪解けのキーパーソンがセボムという太陽のような明るい娘ってのがうまいなぁって思いました。セボムの存在は悲しみの象徴でもあり、救いでもある。そして二人を見る現代の目でもあるのかな?と。・・・物語作りに巧みさを感じました。考えれば考えるほどよく出来ているなぁって。さらに、二人の生活をサイドストーリーで徐々に見せていき、心情を表現していく点も物語をより盛り上げていったと思います。
生きづらさとは不幸につながります。少数派の幸せは多数派の不幸に繋がっていた過去、いや今もあるんだろうなぁ。できれば様々な方が生きやすい社会であってほしいし、セボムのように手を差し伸べる人が多くなってほしいと思います。手紙に本心を書き伝えるように、当たり前のように公の場でも本心を言い合え、認め合える社会になってほしいと思います。
静かに胸に染み入る良作でした。
余計なセリフがない美しさ
韓国で暮らすシングルマザー ユンヒの元に小樽から手紙が届く。
ユンヒと娘は手紙の差出人ジュンに会いに小樽へ向かう…
余計なセリフを減らし、表情で静かに伝えてくる。
かといって退屈にならず、登場人物の機微に触れ、
新たな未来に希望が出てくる。
言葉足らずじゃないかなぁと思ったが、それがこの作品の美しさ、繊細さでもあるのかなと思った。
雪を踏みしめる音が暖かく聞こえた
いいところを挙げきれない、好きなところを言い尽くせない、別にそれでも構わないと思うんだけど、それがやけに怖くて感想が書けない。とても好きな映画。身内や世間から冷たい風が吹き付けるなか愛し合う若い恋人たち、の20年後の姿を丁寧に描く。静かで熱い人間賛歌。会えなくなっても若くなくなっても人生に倦んでも、愛がその人をずっと励ましていく。ロマンチックで夢みたいで泣ける。
『いつになったら雪止むんだろう』
劇中で何度も繰り返されるこのセリフに日韓両国の関係を憂う政治的メッセージが込められているなどと考えるのは、やはり野暮というものか?
それはさておき、この作品、感情的になっての激しいやりとりや刺激的な場面は一切なく、全編に渡ってひたすら穏やかな空気が流れる。この空気感が何とも言えず心地良い。
そして印象的なのはセリフとセリフのあいだの『間』。
まるで、台本のト書きを観客自身で書くように促してるかのよう。
象徴的なのが、クライマックスのユンヒとジュンの再会シーン。ゆっくりと向き合い、絶妙な距離を保ちながら抱擁する事もなく、見つめ合う。そして、離れていた時間に思いを馳せ、共に涙する。見ているこちらも胸に迫るものがあった。
とにかく、自然と没入していくことができる静かな世界観が見ている側も穏やかな気持ちにさせてくれる。
物語のキーアイテムとして、タバコが使われているが、上司が加熱式を吸っているのに対して、主人公・ユンヒが紙巻きを吸っているのが、いつまでも過去を引きずっているユンヒの気持ちを表している。フィルムカメラも同様。こういった小道具が物語にノスタルジックな雰囲気をもたらし、穏やかな雰囲気を助長している。
中村優子がアラフィフなのに年齢を感じさせない程若々しい。そして、変わらず美しい。
セボン役のキム・ソヘも可愛いかった。
いかにもミニシアター向けの地味な作品だが、出来ればロングラン上映してほしい上質な作品。
心の雪解けを待って。
娘セボムに押しきられ、卒業旅行という名目で小樽へやって来たシングルマザーのユンヒ。ここはかつて心を通わせた女性ジュンが暮らす街。一通の手紙をきっかけに20年の時を経て雪の街で再び交差する静かな大人のラブストーリー。
男尊女卑の感覚が根強く残る韓国。自らのアイデンティティを全否定された過去。傷付き封印していた思い出の扉を今を生きるセボムがこじ開けてゆく。秘密を抱えたまま生きることへの後ろめたさなのか、諦めか、それとも悟りか。どこか暗く憂鬱なユンヒとジュン。セボムの明るさと行動力は救いだった。
セボムと叔母さんは2人にとって世代を越えた最高の理解者。1番身近にそんな存在がいることは幸せなこと。そのことに気付いたことは再会よりも大きな収穫だったかもしれない。
ただ、とにかく淡々としていて私は正直退屈してしまった。地味なシーンばかりで、せっかく冬の小樽が舞台なのにちょっと残念でした。
女性同士のささやかな絆。
小樽に住むジュンと韓国に住むシングルマザーのユンヒ。ジュンがユンヒに向けて送った手紙を機に娘とユンヒが小樽へ旅する話。
女性同士の愛の話とシスターフッド的な話でもあるけど、去年の日本映画『あのこは貴族』のように その絆をささやかに描いてるとっても温かい話だった。
特別な言葉は介さずとも共鳴し合いお互いを抱擁し合うジュンとその叔母、全ては話さずちょっとずつ母のことを知ることで絆を深め合うユンヒとその娘。全ては知りえなくてもなんとなく理解し共感し合う女性たちの姿を全部丸ごと抱きしめたくなった。
小樽を覆い尽くす雪は、ジュンが過去のことや自分のセクシャリティをずっと隠していることの象徴のようで、叔母が何度も言う「雪はいつやむのか」という言葉はジュンが本当の自分をさらけ出せる日はいつ来るのかというふうに聞こえる。
"何かを覆っている"という意味では結構言葉の裏を読ませる会話が多いなと思った。ジュンの経営する動物病院に通う女性とのやり取りも「月が綺麗ですね」と言っていたり、暗に女性が好きであることを隠しなさいと言っているようなセリフがあったり。バーで友達と会ってご飯食べたと韓国語で話すユンヒもしかり。
他にも、大学を諦める代わりに内緒で母が買ってくれたと語るユンヒの話も女性たちの見えないところでの強固な繋がりを感じさせるし、そもそもユンヒとジュンの交流もほぼ隠されてる。この映画で、全てを覆い尽くす雪は厳しいものではなくて、優しく守ってくれるものなんだな。
雪が降りつもる小樽を舞台にしても画面の中がずっと温かいから、2人が本当の自分をさらけ出せる日なんて来なくても、きっと幸せに生きてけれると思わせてくれる。
同性への恋心に「特別な何か」はいらない
とても薄いガラスでできたような映画だ。
驚くほど美しいのに、簡単に壊れてしまいそうで、大切に扱わなければと思わされる。イム・デヒョン監督は、これまで韓国映画で取り上げられることが少なかった中年女性の同性愛を、特殊なものにすることも、性的なものにすることもなく、抑圧された社会に“ただ”生きる女性たちの物語として描いた。
韓国でシングルマザーとして暮らすユンヒと、日本で伯母と暮らすジュン。20年前のふたりの初恋が、北海道・小樽を舞台に語られる。
劇中で、ユンヒとジュンの恋は、直接的な言葉や表現を一切使わずに描かれる。ふたりが恋愛関係にあった20年前の韓国では口に出せなかった強烈な思いを、陳腐なセリフで語らせない演出に、キム・ヒエさんと中村優子さんの静かに燃えるような演技が光っていた。
中村さんは、ジュン役を演じるにあたり、ジュンとユンヒの文化的背景を知ろうと、当時日本語翻訳版が出たばかりだった「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだ。中村さんをインタビューするにあたり、私もこの本を読んだ。薄々気が付いていながら、怖くて直視できないものが詰まっていそうで避けてきたこの本を、「ユンヒへ」を見る前に読めて良かったと思う。この作品をフェミニズムに絡めて語りたくないが、家父長制の強い文化のなかで、女性として生きるのはやっぱりつらいことだ。私が慣れてしまっただけで。そのうえで、レズビアンとして生きるユンヒとジュンはどんな思いだろう。
ジュンは日本で独身のまま暮らしている。ジュンにその選択肢があったこと、ユンヒの娘が母親をジュンと再会させたいと思ったことは希望だ。それでも、これが、こんな些細なことが希望だというのは同時に絶望でもある。ユンヒの娘の世代には、もっと希望らしい希望があることを願う。
インタビュー終わりに、ユンヒとジュン、キム・ジヨン、そして私たちが生きる世界について少しだけお話した。「何も変わらない、本当に何も変わらないんですね」とふたりで目を伏せたことは一生忘れない。
「悲恋のセクマイ」エピローグ
両親が小樽出身なので、どんな風に切り取られるのかな、、という興味で見ました。天候待ち、予算の関係で美しい雪国を撮る余裕無かったのかな、、でもキムヒエと中村優子は美しかった。
なんだろうなぁ、30年くらい前の韓国だからかなり厳しかったと思われる「セクシャルマイノリティのドラマチックな悲恋の物語」の、、エピローグみたいな話。
直接的な表現を極力避けて2人の関係を優しく見守る、、昔人目を避けてひっそりと育んだように、、そしてお互いに今の自分を肯定して行く過程を描いています。
ジュンのSF好きの母は多少は娘のこと感じてただろうけど、ユンヒの娘は手紙だけで母を海外に住む友人に会わせたいと思うだろうか、、、と少し思った。
柔らかい感じで瀧内公美が出ててお得感あり。
自分なら絶対自分を止められないと思ったww
そこが純愛。
二人が祝福される日が来るだろうか
ここ数年だが、同性愛をテーマにした映画が多い気がする。LGBTに対する無理解を少しでも減らそうとしているのだろうか。
ところで日本ではLGBTは最近になって話題となっているが、LGBTそのものは昔から存在しているようだ。何かで読んだ記憶があるのだが、古代ギリシアで恋というと男性同士の恋愛のことだったそうだ。日本の江戸時代も男色が普通に存在した。大奥も推して知るべしだろう。年齢や上下関係などの要素もあって、同性愛を一律には論じられないが、資料が残っているということは、社会的に認知されていたに違いない。
最近になって話題になっているのは、ずっと話題にすることをはばかられていたからという理由もあるだろう。新宿の二丁目は昔からホモの聖地として認知されていたが、ある意味で否定的な認知だった。しかしそれが人間のひとつの性のあり方として、肯定的な認知に変わってきたと思う。だからマツコ・デラックスがテレビで存在感を示している。
本作品は20年前の韓国で社会的に認められなかった悲恋を描いている。現在の韓国は不明だが、現在の日本でも、同性同士の結婚は法的には認められていない。議論も進んでいない。それはある種の人権侵害だろう。同性愛に厳しい国も多数存在していて、イスラム諸国のように同性愛者を死刑とする国もある。殆どが非民主国家である。
日本国憲法には婚姻を定めた24条に「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」という文言がある。憲法を改正するとしたら、第9条ではなく、まさにこの条文である。この条文を盾に取って同性婚の禁止を主張する連中がいるから困るのだ。
憲法13条には「すべて国民は個人として尊重される」とあり、同14条には「すべて国民は法の下に平等であつて」とある。つまり憲法が同性婚だからといって国民を差別することはないはずなのだ。この整合性を理解できない政治家が多いのである。
本作品は必ずしも「ユンヒ」が主人公ではなく、娘のセボム、函館で暮らすジュンの3人の群像劇となっている。ちなみに「ユンヒ」という名前だが、公式サイトが「ユンヒへ」となっているから仕方がないのかもしれないが、映画の中では「ユンヒ」という発音は一度も出てこない。誰からも「ユニ」と呼ばれている。
ユニとジュンの再会を仕掛けたセボムは、母とジュンの本当の関係を知っていたのかどうかは最後までわからない。ただ、母の人生にとってジュンという人がとてつもなく重要な人なのだということはわかっている。
ジュンを想うユニと、ユニを想うジュンの、それぞれの暮らしが淡々と描かれる。再会も別れも、淡々としている。日本も韓国も、そうしなければならない社会なのだ。いつか二人のような関係が祝福される社会が来るだろうか。
韓国の社会はいまだに同性愛に対して否定的であると想像できる。作品の中でユニが長期休暇を取ろうとすると、女性の上司から「仕事に責任を持て」と言われる。つまり韓国では個人よりも組織を優先するという考え方が支配的ということだ。組織を優先する社会はLGBTに冷酷である。
日本の社会は、民間では既に同性婚を認める雰囲気で、市区町村でもパートナーシップ制度の導入が進んでいるが、国の婚姻制度は変わる様子がない。杉田水脈みたいな政治家がその前に立ちはだかっているのだ。他人の幸せを妨害して何が楽しいのだろうか。
時代によって引き裂かれた2人の心の一部を埋める”再会”を静かに描く!!
今作は同性愛を扱ったものではあるが、時代によって引き裂かれた2人の再会を描いた、静かな物語だ。
ドラマや映画という媒体を使って、メッセージを発信していても、どこかフィクションとして観ていて、一般的には、まだまだ自然なものと受け入れる気配は感じられない。
特に宗教上の問題や、国の方針によって、何世紀にも渡って、同性愛はタブーだと受け継がれてきたことか背景としてある国は、多様性だとリベラルが訴えたところで、受け入れる余地もない状態だったりする。
韓国における同性愛の歴史というのは、決して理解されていたとは言えないもので、今でこそ『ある詩人の恋』や『メソッド』といった、同性愛を扱った作品も製作されるようにはなったものの、同性愛やトランジェンダーを映すことをタブー視されていたのは、まだ2000年代でも続いていた。
その理由としては、韓国は同性愛を精神疾患として扱ってきた過去をまだ引きずっているからだ。少し前の世代までその概念というのは、引き継がれており、今でも風当たりは強く、まだLGBTQの居場所は映像業界にほとんどないといえるだろう。
今作のユンヒとジュンも、自分たちが同性に対して「愛」を感じたことさえも許されない時代ということもあって、その感情自体が確かなものとしないまま、蓋をしてしまったのだ。その後、ユンヒとジュンの心に穴が開き続けていた、自分の一部をずっと無くしたままのような状態が続いていたといえるだろう。
再会したふたりが交わす会話も「ひさしぶり」と、少しの言葉でしかないが、この少しの会話の中で、互いに欠けていたものが埋まった瞬間を確認できる。決して再び恋が燃え上がるような劇的な展開をむかえるわけではないし、この再会は心の穴を埋めるのと同時に、正面から伝えられた、何かよくわからない感情のままの別れではなく、明確に愛に対しての「別れ」でもあるのだ。
今作は全体的にセリフも少なく、多くを語る作品ではないが、ユンヒとジュン、そしてユンヒの娘、ジュンの叔母という3世代のキャラクターに、時代によって日々アップデートされていく価値観や概念の変化を体現させることで、明確なセリフなどからではなく、観ている側に自然に感じさせる全体的な演出と画作りは見事な作品だ。
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