「二人が祝福される日が来るだろうか」ユンヒへ 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
二人が祝福される日が来るだろうか
ここ数年だが、同性愛をテーマにした映画が多い気がする。LGBTに対する無理解を少しでも減らそうとしているのだろうか。
ところで日本ではLGBTは最近になって話題となっているが、LGBTそのものは昔から存在しているようだ。何かで読んだ記憶があるのだが、古代ギリシアで恋というと男性同士の恋愛のことだったそうだ。日本の江戸時代も男色が普通に存在した。大奥も推して知るべしだろう。年齢や上下関係などの要素もあって、同性愛を一律には論じられないが、資料が残っているということは、社会的に認知されていたに違いない。
最近になって話題になっているのは、ずっと話題にすることをはばかられていたからという理由もあるだろう。新宿の二丁目は昔からホモの聖地として認知されていたが、ある意味で否定的な認知だった。しかしそれが人間のひとつの性のあり方として、肯定的な認知に変わってきたと思う。だからマツコ・デラックスがテレビで存在感を示している。
本作品は20年前の韓国で社会的に認められなかった悲恋を描いている。現在の韓国は不明だが、現在の日本でも、同性同士の結婚は法的には認められていない。議論も進んでいない。それはある種の人権侵害だろう。同性愛に厳しい国も多数存在していて、イスラム諸国のように同性愛者を死刑とする国もある。殆どが非民主国家である。
日本国憲法には婚姻を定めた24条に「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」という文言がある。憲法を改正するとしたら、第9条ではなく、まさにこの条文である。この条文を盾に取って同性婚の禁止を主張する連中がいるから困るのだ。
憲法13条には「すべて国民は個人として尊重される」とあり、同14条には「すべて国民は法の下に平等であつて」とある。つまり憲法が同性婚だからといって国民を差別することはないはずなのだ。この整合性を理解できない政治家が多いのである。
本作品は必ずしも「ユンヒ」が主人公ではなく、娘のセボム、函館で暮らすジュンの3人の群像劇となっている。ちなみに「ユンヒ」という名前だが、公式サイトが「ユンヒへ」となっているから仕方がないのかもしれないが、映画の中では「ユンヒ」という発音は一度も出てこない。誰からも「ユニ」と呼ばれている。
ユニとジュンの再会を仕掛けたセボムは、母とジュンの本当の関係を知っていたのかどうかは最後までわからない。ただ、母の人生にとってジュンという人がとてつもなく重要な人なのだということはわかっている。
ジュンを想うユニと、ユニを想うジュンの、それぞれの暮らしが淡々と描かれる。再会も別れも、淡々としている。日本も韓国も、そうしなければならない社会なのだ。いつか二人のような関係が祝福される社会が来るだろうか。
韓国の社会はいまだに同性愛に対して否定的であると想像できる。作品の中でユニが長期休暇を取ろうとすると、女性の上司から「仕事に責任を持て」と言われる。つまり韓国では個人よりも組織を優先するという考え方が支配的ということだ。組織を優先する社会はLGBTに冷酷である。
日本の社会は、民間では既に同性婚を認める雰囲気で、市区町村でもパートナーシップ制度の導入が進んでいるが、国の婚姻制度は変わる様子がない。杉田水脈みたいな政治家がその前に立ちはだかっているのだ。他人の幸せを妨害して何が楽しいのだろうか。