「ピノッキオは人間の優しさに光を見た」ほんとうのピノッキオ 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
ピノッキオは人間の優しさに光を見た
ピノッキオはどうして人間になりたかったのだろうか。妖怪人間ベムみたいに人間の世界ではまともに生きていけないのならともかく、本作品の物語の中では違和感なく受け入れられている。人形だから困ることは何もないように思える。
人間の子供は親や教師から殴られて痛い思いをするが、木偶(でく)なら痛みの感覚がないから殴られてもへっちゃらだ。 頭は悪くないから木偶坊(でくのぼう)と言われることもない。人間になるメリットはどこにもない。
子供は何でも信じてしまう傾向にある。親が子供に自分を信じさせる教育をするからなのかもしれない。親が子供に信じてもらえないと、日常生活が何かと面倒くさい。
しかし中には疑い深い子供もいて、大人にとって扱いづらいことこの上ない。だからそういう子供に向かって「ひねくれている」と非難する。大人の都合だ。
ピノッキオは大方の例に洩れず、何でも信じてしまう。悪い大人、悪い教師、悪い友だちは、ピノッキオに害しかもたらさないが、作られて間もない木偶のピノッキオにはそんなことはわからない。
散々酷い目に遭って、ピノッキオは他人の悪意を知る。そして大半の無関心と、歪んだ社会制度と、ごくわずかの親切を知る。それが世の中だと悟るまでにそれほど時間はかからない。
ピノッキオが人間になりたいと思った契機は、作品の中で明確に描かれる。それは妖精が女の子から女性に成長した姿を見たときだ。ピノッキオは悟る。妖精も人間のように大人になるのだ。大人になるということは即ち、見た目が大人になるということだ。
どんなに勉強しても、どんなに働いても、子供の木偶のままでは一人前として扱われない。ピノッキオは大人になりたかったのだ。木偶は成長しないから、人間の子供になるしかない。ピーター・パンと正反対である。
ピノッキオが大人になりたかったのには他にも理由がある。世の中は悪い連中が殆どだったが、例外もあった。サーカスの親方であり、サメの腹の中で出逢った鮪であり、仕事をくれた牧場主である。そしてどこまでも許してくれた妖精であり、何より、自分を作ってくれたジェペットだ。これらの人々はピノッキオに優しくしてくれた。ピノッキオが救われたのは彼らのおかげである。彼らと同じように、大人になったら人に優しくしたい。ピノッキオはそう思ったに違いない。木偶のピノッキオは、人間の優しさに光を見出したのだと思う。