「わたしの不幸は蜜の味」PITY ある不幸な男 きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
わたしの不幸は蜜の味
キワモノ。
「ギリシャとポーランドの合作」という珍しい取り合わせに食指が動いたのだが
(レビューの少なさが物語っているが)
B級スプラッターマニアが喜ぶようなありきたりな結末でがっかり。
ただし、
幾度も印象的に見せてくれた
・玄関でのケーキ受け渡しの二人の立ち姿、
・エレベーターホールでの体の向き、
・ピアノの前で弔いの歌を聞かせる時の息子と父親弁護士の静止ポーズ、そして海辺のシャワーシーン等
人間をフリーズさせてスチル写真のように撮るこの技法はとても面白かった。
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“不幸愛好家”はこの世には存在する。
知り合いにもいる。
「幸福の木も枯れちゃったのよ」と自らの不運を延々とひとりで喋る友人に、僕はつい笑ってしまったが、
この弁護士みたいに不幸製造機にまでイッてしまうと完全にこの人ビョーキだよね。
映画に救いがあったのは、弁護士以外はみんな普通の人々で、そのメンタルが健全であったことかな。
情動的共感という危険な泥沼地獄を突っぱねる正常さを脇役たちは持っていた。
「お前白髪なんてぜんぜんないぞ」
「そう毎日はケーキは焼けません」
「奥さんきのう見ましたよ」
突っぱねる 突っぱねる。
ただし病人=弁護士を病院に連れていくのが間に合わなかったのが悔やまれるということだ。
映画の作意としては、
《同情しているふりをしていてもしょせん他人事。
お前らは更に高次な次の不幸を探して同情相手を嗅ぎ回る連中なんだろ?》と、
どうやら監督と脚本家は我々のことをセンセーショナルに指弾したいようだったが、まるで青くて中学生のシナリオかと思った。
“他人の不幸を飯の種にしている”弁護士さんたち、そして医療従事者さんたちは、この映画にはイヤなものを感じるかもしれない。
でもこういう主人公=病的自己弁護人を、本当の弁護士や医者は我慢して、頑張って、受け容れて治療をしてくれているのだ
この監督の作品集を思い起こせばみんなどこかがおかしい。監督には同情(同調)出来ない。
むろん映画は社会の鏡ゆえ、ギリシャでもかような犯罪が増加しているのだろうが、
「死刑になりたかったので誰でもいいから殺したかった」とか、日本でも昨今流行している自己完結型・自己陶酔型の犯罪形態を見ると、本作、それらへの警鐘なのか、or それへの傾倒なのか、映画の制作意図が詰められていない。
40代の監督と脚本家ならもっと大人の作品を撮ってもらいたいものだ。