トムボーイのレビュー・感想・評価
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ロール/ミカエルはあの頃の自分か、または
主人公の少女ロールは10歳。少年になりたいロールは外ではミカエルと名乗って男子たちから一目置かれ、少女のリザから熱視線を浴びている。ロール/ミカエルの一夏の出来事に密着するセリーヌ・シアマの長編第2作には、必然的に主人公が体も少年になろうと工夫する場面や、やがて常識の洗礼を受ける後半部分など、生々しくて痛々しいシーンが用意されている。でも、これをトランスジェンダーについての映画と言い切ることに少し抵抗がある。なぜなら、観客各々が少年みたいな少女ロールや、少しだけ少女の面影のある少年ミカエル、そのどちらにも思春期一歩手前の自分、またはその時に側にいた誰かを重ね合わせることができるからだ。同性と異性の区別が曖昧な季節だけに許された、まだ幼くて、正直で自由だった気持ちを思い出させるのだ。 この映画を成功に導いた最大の要因は、ロール/ミカエルを演じる撮影当時11歳だったゾエ・エランの瑞々しさ、これに尽きると思う。彼女が醸し出す、見た目少年80%、少女20%の絶妙な配分が、性差を超えて魅力的に見えるからこそ、誰もが息を殺して見入ってしまうのだ。
半分少女
男の子のふりをする女の子の話だが、これを見る限りでは同性愛なのかトランスジェンダーなのか、それともそれ以外の何かなのかはよくわからなかった。最初に思い浮かべたのは、ラッセ・ハルストレム監督の「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」に登場した少女サガだ。 休暇中に周囲を偽っていても、学校が始まればたちまち露見してしまうのだから、あまり深い考えがあったわけではないのだろう。揺れ動く成長期の心的葛藤の只中で煩悶しているというか。リザに本当のことを告げた時の、二人の何とも言えない対峙の表情がリアルだった。 セリーヌ・シアマ監督の初期作品とは知らず、先に近作の「秘密の森の、その向こう」を見ていたので、森の中で遊ぶ子どもたちをカメラで捉えるという点で共通しているなと思った。監督のこれまでのフィルモグラフィーは自身のセクシュアリティと不可分のように見えるが、今後もずっとこの傾向を維持していくのだろうか。思いっきり離れたテーマを採り上げてみても面白いと思うのだが。
☆☆☆★★★ 2008年、渋谷のAーQXで初めてこの女性監督のデビ...
☆☆☆★★★ 2008年、渋谷のAーQXで初めてこの女性監督のデビュー作『水の中のつぽみ』を観た時、多感な少女が知る《性のめざめ》には、何か不思議な感覚を覚えた。 昨年、『燃ゆる女の肖像』で日本の映画フアンから絶大な支持を集めたものでしたが。個人的には思いのほか刺さらず…「アレ?良作だとは思うんだけどどなあ〜」と、生意気にも💧 鑑賞後に『水の中のつぽみ』の監督と知り。少女の繊細な心模様の波紋から、どうゆう経路で大人の女性の話へと至ったのかに興味を持つたのでした。 本作品は監督第2作目らしく、題材となるのは今回も子供。 何人かの子供達が登場しますが、どうゆう演出をしているのだろう?出て来る子供達がとにかく自然で、(日本映画等によくある)子役独特のいやらしさが皆無で、この女性監督の演出の確かさが良く分かる。 どこか、かってのトリュフォーの映画(『トリュフォーの思秋期』等)に出て来た元気な子供達を思い出したのは、こちらがおじさんになってしまった証拠だろう💦 映画が始まり、暫くしたところでのお風呂の場面で、この主人公のミカエルが持っている悩みと秘密に関する予想はついてしまうので、その後に待ち受けるサスペンス的なドキドキ感はないものの。ミカエルが抱える心情に、段々と没入してしまい、(多分少数意見にはなるでしょうが)『燃ゆる…』を観た時よりもこちらの胸にはガンガンと刺さって来る作品でした。 バレエを題材とした作品の『girl』も秀作でしたが、あちらとは逆の意味で対を成す作品かと思います。 撮影当時は、まだ監督としての評価も定まってはいなかったであろうし。観ていれば分かる通りに。低予算、且つ与えられる作品としての尺も短く纏める要求を受けていたであろう…と見受けられる。 それだけに映画本編は、中途半端気味に終わってしまうのですが。逆に言えば、その後ミカエルに起こりそうな子供のイジメであり残酷さをリアルに描かない事で、観客側は嫌な気分にならずに済んでいる…とも言えると思う。 今後は『燃ゆる女の肖像』の成功で、大きなプロジェクトを請け負うのでしょうね。 監督デビュー作に2作目と、共に素晴らしい子供の演出技を見せてくれただけに、更に子供を巧みに演出する新たな作品もまた是非観てみたいものです。 リザの美人さと、ジャンヌの可愛らしさにも一言触れておきましょう( ;´Д`)ハアハア 2021年10月23日 キネマ旬報シアター/スクリーン3
ボーイッシュでお転婆
これ、あらすじを読まないで観た方が断然に楽しめる、仲間の輪に入ろうと探り探り、流石にサッカーは遠慮気味で、上半身裸で唾を吐きそんな姿に憧れを、控えめな少年が野蛮にも思える団地の男の子たちと仲良くなるまで、幼い恋もしてみたり、そんな微笑ましい物語を素直に観ていると?? 疑いもなく美少年な男の子だったのがあら不思議、ワンピースを着たら女の子にしか見えない、六歳の妹がナイスキャラで一番の理解者、純粋無垢で無邪気な子供たちは残酷でもありながら受け入れられる柔軟性を兼ね備えている、この一夏をそう遠くもない将来で行うと『ボーイズ・ドント・クライ』のように無残な結末が訪れてしまう!? 単に映画の題を鵜呑みにできない、チョットした悪戯だったのか、トランスジェンダーの問題が見え隠れしながらも爽やかで清々しい余韻を残しながら。
【人生の中で僅かしかない第二次性徴期を前にした中性的な雰囲気を持つ少女の、妹を想っての挑戦と葛藤を鮮やかに描いた作品。”ジェンダーって何だろう・・。”と思った作品でもある。】
ー ご存じの通り、今作は『燃ゆる女の肖像』で、世界を驚嘆させた(含む、私。)セリーヌ・シアマ監督による長編第2作である。ー ■夏休みに新しい街に引っ越した10歳の少女・ロール(ゾエ・エラン)。 周囲に「ミカエル」と名乗った彼女は、新しくできた友人・リザたちに自分を男の子だと思い込ませる。 リザからの好意に葛藤しつつも、2人は距離を縮めていくが、夏の終わりはすぐそこまで近づいていた。 ◆感想<Caution! 少し、内容に触れています。> ・妹ジャンヌ(私見であるが、ロールのボーイッシュな雰囲気を前面に出すために、可愛らしい女の子が演じている。)から”強いお兄ちゃんが欲しい・・”と言う言葉を聞き、ロールは一夏だけ、男の子「ミカエル」に成り済まそうと決意する。 - 彼女が、決して好奇心だけから男の子に成りすましたとは、私には思えなかった。- ・そして、転入前、級友になる筈のリザたちとサッカーなどをしながら、交流を深めて行く姿。 - 30年位前の記憶であるが、ボーイッシュな女の子はスポーツが得意だった子が多かったと記憶する。- ・けれども、リザから好意を寄せられ、戸惑いながらもそっとキスをするシーン。 - 極、自然に描かれている。 それにしても、「ミカエル」を演じた、ゾエ・エランを見出したセリーヌ・シアマ監督の慧眼と、それに応え、勇気ある(相当な勇気だと思う)演技を披露したゾエ・エランさんには、敬意を表したい。ー ・妹のジャンヌを”ウザイ”と言って苛めた男の子に対し、身体を張って抗議、喧嘩する「ミカエル」。しかも、見事に勝利する。 - が、この一件から「ミカエル」が女の子である事が、周囲に伝わって・・。- <人間は、男女を問わず第二次性徴期前には、中性的になる瞬間がある。今作は、そのわずかな瞬間を物語性を絡めて、鮮やかに切り取った稀有な作品である。 それとともに、、「ミカエル」を勇気を出して演じたゾエ・エランさんが、現在ジェンダーに関わらず、幸多き人生を送っている事を、遠き日のいずる国から願った作品でもある。> ■友人の人類学者から言われた事であるが、人間は第二次性徴期前と、人によっては(女性に多いらしい・・。)70歳を超えると再び中性的になる方がいるらしい。 成程。 理に適っている気がする・・。
子どもにもジェンダー理解は難い。大人なら尚更だろう。
少女を通じて描かれるジェンダーは、成人のそれに対する後ろ楯となるだろうか。 フランスで同性婚が合法化する前の制作であることはこの設定に何か依拠しているのか興味深いところである。
嘘をついてどうするんだとドキドキする
小学生の高学年になってもまだ男の子として通じる女の子が、男の子と嘘をつき新学期が始まるまで過ごすドラマ。夏休みの開放感や思春期の直前のような世界に眩しさを感じるものの、これから新学期が始まって可愛いサスペンスのような嘘をどうするかわからないドキドキがある。 見ている間そればっかりはしょうがない、でも許してあげて欲しい、みたいなことをずっと考えていた。
メタファーとしての森?
森がとても印象的な作品。 ロールの、ミカエルのの、心の中のような森。 迷い込み、駆け抜け、逃げ込み、彷徨う。 自分はナニモノか、意識が芽生えてくる頃の子供の揺らぎを丁寧に描いていて、共感しすぎず、突き放し過ぎず、子供だからと変な気も遣わず、自然体でとても良い距離感の作品。 自分も、小さい頃からスカートや女の子らしいアイテムや女の子らしい遊びが苦手で、なぜ他の子みたいにできないのかと詰められてきた事を思い出して苦しくなった。 生理が始まった時に感じた、人生が終わったような絶望感。女の子か達からカッコいいと言われた方が嬉しかった事。髪の毛は伸ばさず、パンツ(ズボン)しか履かなかった。 そんな自分の子供時代に、ロールの父親のような親がいたら、きっと少しだけ心が楽になっただろう。 そしてロールの母親には、いずれ、ロールをミカエルとして受け入れてほしい。 きっと、ワンピースを森の中に置き去り、タンクトップと短パンで生きると決めたんだろう。 その決意が羨ましくて、眩しかった。 色んなことに絶望し、諦め、今を生きるしかないけれど、ラストシーンは少しだけ希望が持てて良かった。 どうかその希望の火が消えませんように。
ジャンヌ
話の本筋ではないかもしれないが、妹の愛らしさがなによりも印象的であったりする。こちらがニヤニヤ。彼女だけでなく、子供演出がお見事。 女友達に言い寄られる時の微妙な表情を見ていると、同性愛という訳でもないようであるが、ストレートも性が発芽しきっていない年頃の話なわけで、その分化しきれていない自分を確かめるような仕草の数々に説得力を感じた。
何者でもない時代は大事!
一言でいえば 良かったのか、悪かったのかLGBTQ前のフランスの男の子か女の子か曖昧さのなかにある子どもの話である。 この監督の「燃える女の肖像」という作品は観ていないが、約10年前に撮ったこの作品にも、ある種の刃を突き付けられるような場面が後半にある。私たちはジェンダーの烙印から逃れられない。しかしそこに人間は”ひとりの個”であり、だれもが自分はじぶんであり、誰にも命令・指示されるものではない。という確固たる個が育つ前の前段階の映画というとらえ方をしてみると主人公(トムボーイ)は愛おしくもあり、周囲の接し方の重要性は肝に銘じなければならない。 途中眠くなったのも事実ですが、子ども時代から遠ざかってしまった、ある種大人のリトマス試験紙みたいな映画です。興味があれば是非観て下さい。
解釈が分かれるところですね
小学生はまだ中性なので女の子としての型にはめられたくない、という映画なら納得。主人公は男になりたい女の子なら、お母さんは「なにバカなことやってんの!」と引っぱたかないでもっと話を聞いてあげてよと思います。10年前の映画ですが、いま製作されたならどうなんでしょう? もっと主人公の心情を深掘りして欲しかったとモヤモヤが残りました
私もTomboyだったかも?でも男の子になりたかったわけじゃない
この映画を観て、甘酸っぱくて青い、思春期前の自分のアレコレを思い出しました。で、あっ、私もTomboy(お転婆)だった!と気付きました。 今は平均身長もない私ですが、小学5、6年生あたりは早熟で背も高い方(リザも1番背が高かった)。何故か男の子に対抗意識が強く、勉強もスポーツも負けたくなかったのです。決して男の子になりたかった訳ではなく。普段は大人しいくせに、優等生と見られるのは嫌で、わざと男言葉を練習して頓珍漢なタイミングで先生に試してみたりもしました。 中学生になるとそんな衝動は見事に無くなり、物憂い思春期の乙女?となりましたが。 だからロールの気持ちも少し理解できます。体も心も大きく変化する時期に、性的なことだけでなく、自分でも何故かわからず突拍子もない行動をしてしまうあの時期。ロールは今の段階では、ノーマルでボーイッシュなだけのようにも見えますが、リザとの淡いロマンスを経験して変わってゆく可能性もありそう。 必死で男の子のフリをする涙ぐましい努力と、バレちゃうよーとハラハラするスリルで、ロールが愛おしくて堪らなくなるのです。 もうー、そんなことしたら学校始まってからどうすんの〜? あっ、そんなに激しく遊んだら、水着からアレが落ちちゃうよ〜? 妹ちゃん、上手く誤魔化して〜!(ちょっと本当に上手すぎた。ロールと正反対で、ムチムチして女の子フェロモン溢れていながら、超頭いいし、お姉ちゃん思いで悶絶可愛い) そして、とうとうお母さんに嘘がバレてしまう。いきなりロールの頬をビンタするのは、少し衝動的すぎるとも思いましたが、臨月近い妊婦だし、転居したてなのに嘘の内容が性的なことで、しかも周りを巻き込むものだったからかな。 お父さんはもしロールが男の子として生きる道を選んだとしても、受け入れてくれそう。というかお父さんが男の子欲しくてロールに接していたのにも遠因あるかも。 お母さんはまだ普通の女の子でいて欲しかったのですね。でもとても仲の良い家族だし、そのような問題も将来上手く乗り越えられそうな雰囲気もあります。 夏の優しいキラキラ輝いた景色が、成長期の子供たちをあたたかく見守ってる感じもいいですね。だから10歳の子のオールヌードは、必要なかったかなあ。 主役のロールは、監督がサッカーをしている彼女を見て一目惚れしたとか。彼女の第二成長が始まる前の貴重な時間が無ければ、制作出来なかった映画ですね。
なんか中途半端な気がする
男の子になりたい女の子の話なら、オチも含めて中途半端だと思う。 子供だから男か女か揺れるという内容だったらまだわかるけど、主役の子の描き方はたぶんそうじゃない。だから無理やり大人におさめられるオチはなんか釈然としない。
こどもの世界の描写が絶妙
たった一つの嘘が、大きな誤解に発展して、後戻りできなくなったわけだけど。 残酷にも見えるこどもの世界。 でも、こどもなりの落とし前というか、ちゃんともってて。 自分のしたことにも、向き合おうとしていて。残酷では終わらない、相手を潰すだけでは終わらない、そこが大人の世界と違うところ。 別の面からみたら、周りの大人は何してたの?って、視点もあるけれど。 焦点がぶれずに、こどもたちにだけ光が当たっているところが、この映画の素晴らしさのように思います。
こんなに子供の股間を凝視した映画は始めてかも
まずは、妹のジャンヌ役のマロンちゃんとリザ役の娘に助演女優賞をあげます。お兄ちゃん(お姉ちゃん)の言うことをよく聞いて、おしゃまで可愛いジャンヌ。 「燃える女の肖像」の女性監督セリーヌ・シアマが2011年に作成した映画とのことで是非見ようと思いましたが、すごい人気で平日でも連日満員でした。やっと、最前列の真ん中のいい席を取れました。 セリーヌ・シアマ監督の原体験そのものなのかなと思いましたが、性同一性障害の理解にはとても分かりやすい良い映画だと思いました。 ミカエル/ロール役のゾエちゃん。下調べなしで見たので、主演は男の子で女の子の役をやっているのだずっと思っていました。それが、赤のスクール水着をハサミでチョキチョキしてからはオヨヨ。タ○スジがくっきり。妹の緑色の粘土をコネ始めて、ありゃー、こんな幼いうちから張形自作。ちょっと立派過ぎないかと、ドキドキ。全力で子供の股間を凝視してしまいました🙏 リザと同級生の設定なのに第2次性徴がまったくないし、男前だなぁと思って最初から観ていたし、妹の方がムチムチして女性ホルモンたっぷりだったので全然わかりませんでした。リザにお化粧されたり、ワンピース着せられると、やっぱり女の子なのかな~?みたいな。ゾエちゃん、あとで調べたら、女優って書いてあり、現在の写真も確認しました。ミカエルは英語だとミッシェル。男女どちらも使える名前です。賢いですね。ローラなら聞いたことあるけど、ロールって名前の女の子は聞いたことなかったのですが、エンドロールではLaureでした。 二人の両親もとてもいい親御さんで、いいご家庭でした。それがまたロールにはツラいんでしょうね。妹はお姉ちゃんのよき理解者でいてくれると思いますけど、子供も増えて、両親の愛情がだんだん下の子に移って行くと、疎外感を感じるようになってしまうのでしょうね。ビジュアル的には息子ですが、お母さんは娘に手をあげてしまった😰 学校始まるともっとツラいでしょうね。リザは全然悪くないのに。リザのことも心配です。あとひきますね~この映画。
本格的な思春期を迎える前の子供たち
男とか女とか意識したりしなかったりが入り混じったカオスな頃を上手く描いたなぁと思います。子供の頃の自分と重ねたりて…まったりと鑑賞をオススメします。
【フィクションだと思わずに…】
まず、子供たちの演技が素晴らしい。 そして、この作品は、多くの”大人”、特に頭カチカチの大人に観てほしい。 茶化さないで観てほしいと思う。 一概に「性」とは言っても多様で、自覚する時期も、認識の仕方も様々だと云う考え方が主流になってきている。 幼稚園に入る前から、仮に漠然とでも自覚している場合もあれば、思春期に多い性的指向の表れが決定的な要素になる場合もある。 性については、大きく、 「からだの性」 「表現する性」 「性自認」 「性的指向」 に分けて考えることが多く、”表現する性”が必ずしも”性自認”に結びつかないこともある。 “からだの性”と”対極の性を表現”したい…つまり、服装表現やケンカの強さを競うなどを含む…ケースもあるが、それは、”性自認”や”性的指向”とは関係ない場合もある。ノン・バイナリーなファッションをしていても”からだの性”と”性自認”が一致していることは多いはずだ。 また、当然、結果として性的指向も”バイナリー”なこともあるのだ。 (以下ネタバレ) ロール/ミカエルは、表現だけで、まだ、ハッキリした自覚はないのかもしれない。 もしかしたら、リザがトリガーになる場合も想定されるんじゃないのか。 まだ、性自認が定まっていないのであれば、なんとかして、”からだの性”と一致させようという親は多いと思うが、それが、どれだけ、子供の心を傷つけるのかは、分からない。分からないこそ、精神的ダメージを大人は理解してあげないといけないのだろう。 最後の、ロール/ミカエルの微笑む顔を見て、これから、どうなるのだろうかと、やはり考えてしまう。 まあ、兎にも角にも、子供たちの演技が素晴らしかった。 この80分ほどの作品で、いろいろなことを考えさせられた。
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