「全編からにおい立つ猛烈な「岡田麿里」臭。出来不出来を超越した「個性」にただひれ伏す。」アリスとテレスのまぼろし工場 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
全編からにおい立つ猛烈な「岡田麿里」臭。出来不出来を超越した「個性」にただひれ伏す。
青くさい。
生理くさい。
露悪的で、挑発的。
とにかく「岡田麿里」の臭気が凄い。
むんむんに漂っている。
アニメーションという、特異なメディアにおいて、
絵コンテもひかず、一枚の絵も描かず、
ただ脚本しか書いていない監督の体臭が、
ここまで濃密に作品全体を汚染しているってのは、
やはりただごとではない。
ふつうじゃない。
絵は描けなくても、
絵コンテは人任せでも、
ここまで「作りたい作品が作れる」。
ここまで極私的で、独善的で、セルフメイドな代物を、
何百人ものスタッフをこき使って、人に絵を描かせて、ちゃんと形にできる。
僕は、岡田麿里って人は、本当に恐ろしいクリエイターだと思う。
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彼女が『さよならの朝に約束の花をかざろう』を発表したときは、心底驚いた。
僕の知る限り、アニメ業界で「脚本」から「監督」に成り上がったのは、この人が初めてだったからだ。
たいていの監督は、作画マンか制作進行から演出を経て出世する。大地丙太郎のように撮影あがりの人もいるが、彼も結局は制作進行と演出を経験している。マッチ棒人間でもいいから、絵コンテを描く。ここがこなせない監督というのは、通例いないのではないか。
ところが、岡田麿里は、脚本からマジで監督に上り詰めた。
それは、逆に言えば、本当に凄いことなのだと思う。
一流の演出家と作画マンが「それでもこの人のホンで、この人の指導のもとでアニメを作りたい」と一堂に集ってくれたということなのだから。
スタジオやプロデューサーが、たとえ絵コンテなんか切れなくても、この人ならアニメ監督が出来ると太鼓判を押したということなのだから。
要するに、岡田麿里は、圧倒的な「書く」才能で、「描く」業界を調伏してみせたのだ。
そして、ふたたび彼女は監督として降臨した。
2作目が許されたということは、間違いなく、皆が彼女を監督として認めたということだ。
僕は、そんな岡田麿里を無条件に尊敬する。
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岡田麿里には、クセがある。
濃密で、濃厚な。
それは、「青春」を描くときに、とくにあらわになる。
生臭さと、女臭さと、精液臭さ。
誰かに傷つけられる痛みと、
誰かを傷つけることを厭わないエゴと。
そのやりくちは半ば露悪的で、若干痛々しい。
でも、脚本家自身の空回りや、あてつけがましさや、うざい自意識過剰ぶりもひっくるめて、やがては圧倒的な「個性」のなかに、視聴者を巻き込んでゆく。
最初は半笑いで岡田麿里の奇行とやりすぎをドン引きしながら観ていても、そのうち観客の多くは作品世界に引き込まれ、羞恥を覚えながらも固唾をのんで見守るようになる。
本作でいえば、やはり五実(「ゴミ」とも読めるのはなんとも)に顔を舐められるシーンと、睦実(六つの罪なんだね)との終盤の濃密なキスシーン。
あの、「キャ―――」ってなる、粘っこさとエロっぽさと、にちゃっとした感じが、まさに岡田麿里なんだよなあ。
個人的には、すばらしいと思う。
アニメって実は、そこはホントに重要なんだよね。
最初に初代プリキュアの変身シーンを見たときの「とんでもないものを見させられたような羞恥心」や、最初に『ラブライブ!』の欲情しきった牝アへ顔ライブを見たときの「ヤバすぎて体中がぞわぞわするような犯罪臭」が、そのうち一般化して、大衆化して、巨額の収入を生み出す一大キャラクター産業へと成長する原動力になっていったわけだから。
アニメには、こっぱずかしくなるような「ふりきれた描写」が必要不可欠なのだ。
だから、僕個人としては蕁麻疹が出そうなくらいに気持ち悪いけど、『あの花』のラストは多分あれでいいのだと思うし、僕個人は正視できなくて耳をふさぎたかったとしても、『ここさけ』のミュージカルシーンだって、多分あれでいいのだと思う。人をドン引きさせるくらいの恥ずかしい青春を描かせて、岡田麿里の右に出る者はいない。
(僕の感性で受容可能な範疇に収まる作品でいうと、岡田麿里脚本の最高傑作は、何と言っても『true tears』にとどめを刺すと思っている。)
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というわけで、僕は「臭い」青春ものの書き手としての岡田麿里には、許せる部分も許せない部分もひっくるめて、全幅の信頼を置いている。
一方で、正直なことを言うと、ファンタジー的な世界観の語り口には、けっこうひっかかることが多い。
『凪のあすから』なんかも、海と行き来する設定自体が、僕にとってはあり得なさ過ぎて、個人的にまるではまれなかった。『あの花』にも根本的な幽霊の条件設定に大きな矛盾と欠陥があると思うし、しかもその設定を説得力をもって呈示する能力に、この人は欠けているのではないかと思っている。
今回でも、街で起きている現象がなんなのかを、必ずしも明示しないままで進んでいくために、予備知識無しで観始めると、結構とまどう部分が大きい。
時間が止まっているってのも、はっきり明かされるのはだいぶ後だし。
とにかく登場人物の言動に、得心のいかないところがあまりに多すぎる。
で、観ているうちに世界観の「真相」が徐々に明らかになってくるわけだが、それで違和感が解消されるかというと、居心地の悪い感じはおさまらないどころか、増幅されていく一方なのだ。
いろいろ考えていて、ふと思いつくことがある。
これは『さよ朝』でも全く同じことを感じたのだけれど、
岡田麿里という人はどうやら、「いつまでも変わらないこと」「齢をとらないこと」を、「マイナスの要素」として最初からとらえているらしいのだ。
え、そうなの?
永遠の生って、ふつうに人間が求める至高の目標なんじゃないのか?
いつまでも老人、いつまでも妊婦ってのは確かに可哀想だと思うけど、いつまでも若者って、これだけ特権性の強い「勝ち組」が他に存在するんだろうか?
美少女のままで、何人もの愛する人と出逢って、看取って、また出逢ってを繰り返すのが「苦痛だ」って感覚、それ一般的なのか?
少なくとも、僕なら何の問題もなく、大万歳で受け入れられそうなんだけど。
いや、「前提として永遠の生って最高、永遠の若さって最高」ってところからスタートして、「それを後からひっくり返す」のなら、十分に理解できるのだ。
「最初はみんな喜んだ。でも何年も繰り返すうちに、閉塞感と無力感におそわれるようになった。そのうち、相手を傷つける遊び、身体に痛みを覚えるような遊びばかりをやるようになった。そうでもしないと生きている実感が得られないからだ」
こういうロジックなら、よくわかる。すっとはいってくる。
いわゆる『人魚の森』みたいな、八百比丘尼の悲劇ですよね。
しかし、岡田麿里は、最初から「若さを繰り返す」ことを、「時の牢獄」だと感じていること、「重荷」「苦痛」「不幸」「罰」「呪い」だと捉えていることをまるで隠そうとしない。
おそらく、彼女自身の青春が、浮かばれなかったから。
彼女本人が、引きこもりで、しんどくて、抑うつ的な十代だったから。
でもなあ。やっぱり、その感性はかなり変わってるんじゃないのかな。
少なくとも、僕はかなりひねくれていると思う。
いくらどう考えても、外から観て『さよ朝』のマキアはたいして可哀想じゃないし、
外から観て本作の中学生たちもたいして可哀想じゃない。
僕に言わせれば、見伏町はいろいろ問題を抱えてはいても、本質的な部分では「ユートピア」だとしか言いようがないからだ。
とはいえ、街の「他の住人」が、「現状を維持すること」を唯々諾々と受け入れて、毎日同じ生活をガチで繰り返しているらしいことも、逆の意味であまりに噓臭すぎて信じがたいし、作り手にとって都合がよすぎるように思う。
ふつうに、出られない、閉じ込められている、時すら止まっている、という絶対的に閉塞的な状況に陥ったら、もっと大衆はパニックになるはずだし、早い時期からセクトに分かれて路線闘争なんかが勃発していておかしくないはずだ。
しかも、街でいちばん頭がおかしいと見ただけで分かるような人間に、文句もいわずに付き従うなんてことが起きるとは、僕にはとても思えない。
街の法則にもよくわからない部分が多い。
なんで、告白して傷ついた園部ちゃんはひび割れてオオカミに食われて、
さんざん傷つけあったりいちゃいちゃしたりしてる主人公二人は平気なのか。
誰がオオカミに食われて、誰が食われないかのルールが最後までよくわからない。
(園部、仙波と単に苛められる系、根暗系から先に消えるだけなのかもしれないが)
目の前で告白したデブが消滅する衝撃のトラウマに襲われたばかりの同級生たちが、原さんの告白で、またも野次馬的にはやし立てているのは正気の沙汰なのか。
という感じで、今回もファンタジーという意味では、いろいろ気になるところは多かったかも。
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パンフの岡田麿里のインタビューを読んでいて、
「狼少年のように嘘つきな女の子と、狼に育てられたような野性的な女の子、二人の異なる狼少女のお話を書こうと思ったのが出発点です」
といっていて、そこは「なるほど!」と思った。
その趣向自体は面白いんだけど、岡田麿里ってマジで容赦ないなあと思うのは、ヒロインの睦実をちっともまともな女としては描いていないところで、そこは、みんな忘れてはいけないし、騙されてはいけないと思う。
睦実は、なんだかんだ言い訳はつけているものの、4年だか5年だかの長きにわたって、五実を実質ネグレクトしてきた「ガチでろくでもない女」なのだ。
1週間や2週間の話ではない。何年ものあいだ、言葉も教えず、閉じ込めたまま、臭い状態で、おまるで小便をさせながら、オオカミ少女として放置してきたのだ。わざと。しかも、五実が別のマルチバースの自分が産んだ「娘」であることを知りながらのこの所業である。
その後、娘である五実は自然な形で正宗に初恋に似た感情を抱くわけだが、現世の睦実はそんな娘に敵愾心を燃やし、お前は彼氏である正宗を奪おうとするライバルだと明快に宣言する。まさに「最初に出逢う異性をめぐって、同性の親との葛藤が生じる」というエレクトラ・コンプレックスのケーススタディである。
いや、女とはもともとみんなそういう生き物で、誰しもが「内なる妻と母の闘争」を抱えていて、だから母娘とはこうやって張り合い、愛し合いあがらも憎しみ合うものなのだ、と岡田麿里は問うているのかもしれない。
で、この「毒親」睦実はどうなるかというと、何年も五実を苦しめていた罰でも受けるのかと思いきや、あにはからんや、無事、異世界から来た五実を「改めて元の世界に産み落とす」ことに成功したうえで、自分は永遠に続くかもしれない正宗との恋愛の勝者として、閉ざされた見伏町の正宗の胸へと帰っていくのだ。
これが、「ハッピーエンド」として描かれているらしいところに、岡田麿里という人の真の恐ろしさが見て取れる。
そう、この作品は突き詰めていうと、「ろくでもない睦実」に対して、正宗には「好きだ」と言わせ、仲間たちには「戻ってこい」と言わせ、実際に彼女にとって思い通りの結末を与えてやることで、彼女を全面的に「救済」するのが真の目的の物語なのだ。
そして、岡田麿里には、それを大半の観客に「なんかよかった! ハッピーエンドで!」と力業で思わせてしまう「物語る力」がある。
僕も、これだけ五実にひどいことをしていたはずの睦実のことを、最後のほうは超応援してたし、超可愛いと思ったし、超幸せになってほしいと素直に思った(笑)。
いろいろとひっかかるところや、なんだかひどいと思うところや、これでいいのかと思うところも多々あるんだけど、結局、最後は「良い映画を観た」って気分で劇場を後にしたわけだから、今回も岡田麿里との勝負は、完敗といったところか。
うーん、やはり、凄い監督さんである。
最後に。声優陣はマジ完璧。
とくに上田麗奈と久野美咲は無双状態。
やっぱり、こういうのはガチの声優さんにやってもらうに限るなあ。
あと、「スイートペイン」は超笑いました。
こういうのは、ほんと岡田さん上手いね。
返信ありがとうございます。
もちろん、睦実のヤバさは否定しません。笑
でもそうなんですよね、10年以上の時間の中で、何がきっかけで正宗に声をかけたのかが分からない。
全体的に“きっかけ”や“動機”の描写が不足してたように感じます。
一斉に恋に動き出したのは園部の告白に刺激されたからとも取れるけど、結果消されたワケで、むしろ避けそうな気もするし…
睦実は確かに五実を遠ざけたけど、唯一手編みのカーディガンを与えてるんですよね。
貰いものか、自分で編んだかは不明ですが、そこに突き放しきれない複雑な感情が見えました。
また、五実もそれを大切にしていたようですし…
不変(普遍)をマイナスに捉えていることなど、非常に腑に落ちました。
それにしても、マリーの匂いは本当に独特ですよね。笑
素晴らしいレビュー!めちゃくちゃ共感です!
今回の作品は言い方アレですが、マリーに経血飲まされてるような気分になりました(笑)
本来アニメはこれくらい刺激的であっていいはずですよね。
返信ありがとうございました
観賞中の読解力が不足している自分の低回転力の脳故、結局、あの叔父が工場でやりたかったこと(自動運転が停止したことで、今度は自分達で回そうする意志?)と、オオカミ娘(実子)を神の子として奉る(花嫁の格好?)、そして二人が現実社会に送り返すこと、その前に友達が妨害すること、結局整理がつかない儘にドミノの様に押し流して行く筋立てが、決して今作を批判していることではないので、あれも一つのストーリーテリングのテクニックというかコンセプトなのかもしれないと穿った観方をしております^^ 我ながら随分お人好しな思考ですが、多分、今後のアニメ作品はこういった難解さ(人に依っては破綻作)を意図的にベースに置く物語が生まれ続けると予想されます 私は決まり切ったドラマツルギーではない"意外性"こそにお代を払いたいので、これはこれで歓迎する"派閥"です(苦笑
身勝手な自分語りで貴重なお時間を盗んでしまい、大変失礼いたしました