「哲学的なのに等身大ファンタジーという怪作」アリスとテレスのまぼろし工場 GOさんの映画レビュー(感想・評価)
哲学的なのに等身大ファンタジーという怪作
まず言いたいのは「凄い映画」だということ。それも、今まであまり感じたことのないタイプの「凄さ」だった。
●「母と娘の情念」から「生きるとは」へ
この作品を見て感じたのは、今までずっと私の頭に引っ掛かっていた「変化」「成長」「家族とは」「愛情ってなに」などの「キーワード」が、「生きることは」に向けて「きれいに線で結ばれた」という気がする、ということだ。それは、この作品が持つ「哲学的」な面のおかげだろう。現にタイトルが哲学者だし、哲学用語も出てくる。例えば「哲学奥義エネルゲイアー」。
でも、キーワード達を結んだのは「哲学的な抽象的なもの」ではない。それは「母と娘の情念」というありふれたものだ。そういう「ありふれたもの」を武器に、色々なものの奥に潜む本質に切り込む。そんな「無茶なこと」ができたのは、ファンタジーの設定の巧みさのお陰だろう。
●ファンタジー設定の巧みさ
「生きることを奪われた人たちの思い」が作り出した「変化を止めた並行世界」。そこに迷い込んだ少女は、少女のままの母親に出会い、同じ男性を好きになり、母に敗れる。その「痛み」は「人が宿命的に求めるもの」で、現実でも幻想のなかでも変わらない「生きるとは何か?に迫るもの」だった。荒っぽく要約するなら、そういうお話だと思う。
ポイントは、変化を止められた世界にいることで、「痛みがもつ深い意味」が浮き彫りになる設定になっていること。私たちは痛みや変化なしに生きられない。もし時間を止めたとしても、人が生きている限り、正宗のように絵が上達するのだ。そう素直に感じられる。
そこから成長についても考えさせられる。人は「成長するために変化する」と思いがちだ。でも本当は順番が逆だ。人には「変化という宿命」があるから「成長も」する(成長以外の変化もする)。もちろん成長は素晴らしい。でも成長のために変化すると捉えるのは「倒錯」なのだ。そういう「キーワードの並ぶ順番」に気づかせられるファンタジー設定となっている。
●私の中で繋がったキーワード
私の中で「線で繋がった」と感じたものを言葉にするとこうなる。
「情念(嫉妬、愛情、恋愛)」の中心には「痛み」がある。
その「痛み」は「変化を生み出す心の構造」と分かちがたく繋がっている。
その心の構造が「ある方向性」で作用した結果を私たちは「成長」と呼ぶ。
でも、この作品についてもう少し考えると、もっといろいろなことが見えてくる予感がする。特に、繋がっている気がするけどまだよくわからないのは「鎮魂」だ。
●まだ繋がらないキーワード「鎮魂」
大災害によって生きることを奪われた多くの人々の思いが作り出す幻影。この設定は、どうしても3.11の東日本大震災を思い出す。そしてあの時突然生きることを奪われた人たちの幻影は、まだ生き続けているのではないか。私たちの記憶の中に残っている限り、その幻影は消えて無くならないのではないか。そういうことを考えてしまう。
その幻影はあの日のあの時刻のまま凍り付いてしまっているかのように感じられる。でも本当は、その人々は記憶の中で息づいている限り、変化が起きている。それは科学的には「記憶の劣化」と言われる。でも本当は「息づいている限り変化を止めない人間の本性」に根差したものなのかもしれない。そういう変化そのものに「鎮魂」というものの本質があるのかもしれない。
●鎮魂から「生きるとは」へ
人は失った人の記憶が薄れていくことを悲しむ。でもその「記憶の薄れ」を「幻想の中の人の目線」で語りなおすなら「変化を求めて前に進むことを選び、幻想の範囲を抜け出した」と言えるのかもしれない。そしてそれを「残された人目線」に戻すなら「幻想の中の人を閉じ込めることをやめ、彼らの意志に任せて、解放する」ということだ。それは「鎮魂」の本質に近いのかもしれない。そしてそのことはきっと「私たちが生きること」と線で繋がっているはずだ。
生きることを奪われた人たちと、彼らの「変化」、そして残された人たちに起こっていること。とてもしっくりきて強く共感しました。よいレビューをありがとうございます。