「Everything’s going to be alright」ブラックパンサー ワカンダ・フォーエバー 神社エールさんの映画レビュー(感想・評価)
Everything’s going to be alright
MCUは今までの作品(ディズニープラス前のドラマシリーズ以外)観賞済。ライアン・クーグラー監督作品はフルートベール駅で、ブラックパンサーのみ観賞済。
『ブラックパンサー』の1作目は、『アベンジャーズ インフィニティー・ウォー』前の複雑化していくMCUフェーズ3の中で、2年ぶりのほぼクロスオーバーしない新規ヒーロー単独作で1作目としての完成度も高いうえ、更に政治的や文化的なメッセージ性もあり、その後アカデミー賞7部門でノミネート、3部門を受賞するに至るのも納得の出来でインフィニティ・ウォー直前に駆け込みで観たのを後悔したほどだった。
今思うとアカデミー賞会員がMCUの影響を無視出来なく(勿論視聴率の歯止めを掛けるための意味合いが強いとは思うけれど)なっていき第94回アカデミー賞授賞式では「ベストシーン賞(Oscars Cheer Moment)」と言う実質観客賞のような部門が新たに設立されるきっかけになった作品だと個人的には感じられた。
そんなブラックパンサーの続編が制作されると知った時は、またあの興奮を劇場で観れるのが純粋に嬉しかった。
チャドウィック・ボーズマンさんの訃報を聞くまでは。
2020年に突如チャドウィック・ボーズマンさんの訃報が伝えられ、実は2016年からガンの闘病中で『ブラックパンサー』や『インフィニティ・ウォー』、『エンドゲーム』の撮影は化学療法の合間に撮影されていた事実が後で明かされて、個人的にはただただ信じられなかった。
チャドウィック・ボーズマンさんが亡くなった後、アカデミー賞追悼コーナーでの紹介映像や、アカデミー賞主演男優賞にノミネートされ、アンソニー・ホプキンスさんが受賞した際のコメント、最後のMCU出演作である『What If...?』第2話のエンディングなど、チャドウィック・ボーズマンさんを偲ぶ映像はいくつか見たけれど、コロナ禍も重なったからか、亡くなった実感がずっと湧かなかった。
そんな状態でこの作品を観たんだけど、作品内でティ・チャラも亡くなり(作中でも劇場でも)喪に服すことでようやくチャドウィック・ボーズマンさんが亡くなったことも実感出来て、劇場を出る頃には劇中のみんなと同じく自分も前を向いて歩かなきゃ、という気持ちにさせてくれる不思議な体験だった。
ティ・チャラ亡き後にブラックパンサーを継ぐのが、科学者としてワカンダの新装備を作っていた=神秘の技術とは対極にいる存在(且つ霊の存在を信じない)のシュリで、ブラックパンサーになっていく過程で兄妹だからこそ過去の因縁を引き継ぐ必要も感じた。
今回は水や津波のモチーフが多く、ライアン・クーグラー監督と共同脚本のジョー・ロバート・コールが言うには「この作品は深い悲しみを描く“水の映画”で、深い悲しみを人はしばしば“波にさらわれるよう”だと言います。深い悲しみは、私たちをどこかへ連れて行くこともあれば、まるでその中で溺れているように感じられることもある。ある場面で、登場人物がみな水に呑まれてしまうことも理にかなっていたのでしょう。」と言ってたけど、日本人の自分としては東日本大震災を思い起こさせた。
『ローグ・ワン スターウォーズ』や『ワイルド・スピード スカイミッション』のようなCG処理、代役を立てる、などの案はMCUなら実現は出来ただろうけれど、そんな代案を立てない時点でライアン・クーグラー監督やマーベルスタジオがあくまでもチャドウィック・ボーズマンさんに真摯に作ろうとしてるのが伝わってきた。
ティ・チャラの死を起点にしながらも、ティ・チャラを賛美するだけじゃなく、その選択の結果が功罪を生み出している部分(タロカンの問題もヴィヴラニウムの問題も元々はティ・チャラがワカンダの技術を世界に開いた結果)を描いていたのは1作目がティ・チャカの行動がキルモンガーを生み出すことになったのをなぞっていて(元々の脚本からあった要素とは言え)継承に相応しい話だったと思う。
キルモンガーが言った"高貴すぎる王"って表現は、チャドウィック・ボーズマンさんやティ・チャラを表しながらそんな王を目指せる人間は僅か、我々は普通の人間であり、普通の人間でも困難の為に立ち上がらなければならないってメッセージにも思えた。
今回は原作では古代アトランティスの国王だった"ネイモア・ザ・サブマリナー"がメソアメリカ(黒人と同じく奴隷にされ隷属させられていた)を源流にした"タロカン国"の国王になっており、ネイモア役のテノッチ・ウエルタ・メヒアさんが1作目のチャドウィック・ボーズマンさんと同じようにメソアメリカを源流にする種族の人達に絶賛されてると聞き、改めてMCUの影響の大きさやライアン・クーグラー監督の描いたことの凄さに気づかされた。
今年公開された『NOPE』でもマイノリティがマイノリティを迫害するのがメタファーとして描かれていたけれど、劇中ではタロカン(ヴィヴラニウムを持ち、それを原料にした薬で超人化する国)がワカンダをその他の地上の国々と同じく攻撃し始めるのは、マイノリティも人が多くなることで少数派を迫害していく側になる(意識的か無意識かに関わらず)って言うメッセージ性も感じて、過去も似たようなことが幾度も起こっていることを考えれば、もはやこの問題は人類誕生からの全体の業がそうさせている、それくらい話し合いだけでは解決出来ない根の深い問題だと感じた。
そんな中で報復に対する報復、またそれに対する報復と、報復の連鎖を続けなかったシュリの選択は、あの瞬間にマロンダ元女王が見えたのが表す通りブラックパンサーに相応しい人間になった様に見えた。
そして、その後明かされたティ・チャラが遺した息子の名前がトゥーサン(ハイチ革命の指導者と同じ)とティ・チャラ二世なのが、後々この子がワカンダを率いて革命を起こしてくれるのではないかって希望を感じさせ、"ティ・チャラは死すともティ・チャラは死なず"と思わせてくれる素晴らしい脚本だと思った。
本編を見終えた後に予告編で使われていたテムズのNo woman No cryとケンドリック・ラマーのAlrightのマッシュアップが使われていなかったのに気付き、もう一度予告編を見てみると、"Everything’s going to be alright"と歌ってるシーンが苛烈なシーンばかりで、これは観客に向けたものじゃなく、チャドウィック・ボーズマンさんに向けた"大丈夫、こっちはうまくやるから、安心して"ってメッセージにも聴こえた。