「黄色いトランシーバーは片方が失せているから、 もはや会話が不可能だと我々に解らせるサインだろう。」こちらあみ子 きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
黄色いトランシーバーは片方が失せているから、 もはや会話が不可能だと我々に解らせるサインだろう。
奈良美智を彷彿とさせるこの面構えったらない!(笑)「こちら あみ子」。
子どもは こじれてなんぼだ。
このポスターのスチール写真をもって、映画の価値は決まったと云うべきだろう。
傑作だと思うのだ。
映画を観ていない人でも、この写真は一度見たら忘れられないものね。
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でも、中身は違った。
今村夏子原作。
「ポスター写真」のインパクトは天晴れだが、
実際の映画は、う~ん、だ。
非常に難解であり、多くの問題提起やヒントを視聴者に投げかける。
消化するのが難しい。
★の数は僕の好き嫌いで決めた。
思っていたのと違ったのだ。
ラッセ・ハルストレムやリンドグレーンの主人公たちのような、大人社会にはまだ染まっていない=生き生きとした子供時代と、その子供たちの生き様へのあくなき肯定・賛美を描いたストーリー・・とは違ったのだ。
恐らくあみ子は
(劇中、触れられないが)、自閉症スペクトラムや、多動性注意欠陥障害の「患者」にカテゴライズされる存在なのであろうが、
同居者は拳骨を握りしめて歯を食いしばり、あみ子との生活を耐えに耐えているのであり、
学友たちは自分をころしてあみ子のヤングケアラー役を背負い込み、
教師たちは特別支援学校に回されなかったあみ子との騒動を、教室や保健室でスルーするような態度にも出ている。
強情で聞き分けのない子どもに手を焼くと「きっといつかはこの子も成長して大人になってくれるはず」と親は自分に言い聞かせて、祈りながら耐える。
「誰に似たんだろう」とも思う。
でも快癒の可能性とか、希望の未来が見え得無いのであれば、
これはあの映画「どうすれば良かったか、」の前段に位置するだろう破壊的な世界なのだ。
尾野真千子の母も、井浦新の父親も、
あみ子には手を上げない。
というか もう既に疲れ切っていてその気力すらなく、母は金切り声の絶叫ののち床に伏しており。父は脱力感と諦念。兄は制御できぬ世界へと脱出し、
・・つまりこのあみ子による逆DVの家庭環境で、家庭が“死に体”になっているのだ。
物語はスッキリしない。
というか、非常に嫌な後味すら残す。
今村夏子があの「星の子」を書いたご本人なのだと知れば、「ああ、なるほどね」と思った。
歪んでいるのだ、この人は。
そして無理心中だけが回避されて映画は終わってしまう。
検索すればこの映画についての考察や分析の寄稿が山ほど読める。どれもこれもが歪んだ出来ばえゆえだ。
「あみ子はかつての私自身です」とか、原作者が言ってくれれば良いものを、我関せずの投げっぱなしの《虫唾の走る放置》に我々は取り残されてしまう。
ぞっとするばかりだ。
原作者とも対話は出来ないと感じた。
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付記
「岬の兄妹」のレビューで触れた事だが、我が家では精神疾患の女の子を児童養護施設から預かって長く一緒に暮らした経験があるもので、今回、作者のネタ探しの文章と、あと一歩を踏み込まない距離を固持する血の気のない創作態度には
共感が出来なかった。
R41さん
まっすぐなお便りをいつも感謝して受け取っています。
特別なフォロアーさんです。僕にとってとても大切な方。
ありがとうございます、これからもよろしくお願いします。
返信ありがとうございます。
映画には心の奥底に突き刺さる作品があります。
きりんさんの場合が、この作品だったのでしょう。
どんなものであっても、その心の揺れ具合、疑似体験こそ、映画の持つ魅力だと思います。
R41さん
なるほど、
そうか・・。
何かが求められているのではなくて、
つまりこの104分の動画は、何かの解釈や評価や方策を求めているのではない。
これはそのまま「あみ子が生きている姿」なのですね。
つまりあの「ヒルベルという子がいた」と並ぶ ありのままを映す描写の文学。
だからそのままを見て、おのおのが何かを感じればそれで良いのだとR41さん。
限りなくドキュメンタリーやルポルタージュに近い映画技法ですね。
でも僕はあみ子と暮らしたのです。
もうそれ以前にはもう戻れないのです。
そしてあみ子はあみ子ではなくて大沢一菜さんという俳優さんなのです。演技指導を受けてカメラの前であみ子を演じた。
経験し過ぎた者の残念さかも知れません。
ストレートにこの映画を受け取ることは、僕には出来ませんでした。
コメントありがとうございます。
この作品は、あみ子だけに焦点が当てられているように思います。
確かに背景はあります。
それぞれの人物を考えれば悩ましいのは間違いありません。
ただ、物語だけに、これを物語としてみるべきだと思います。
それはあみ子に焦点を絞り込み、彼女の想いとか発達障害なりの思考、そして「いま」の立ち位置の再確認と、それでも「大丈夫じゃ」と明言したこと。
そこに自分自身の感情を重ね合わせるだけで充分だと思います。
R41さん
僕はこのあみ子の世界に強烈に揺すぶられながらも、いまは簡単には共感などするまいと決めて
レビューを閉じました。
家族「も」楽になって救われるためにはどうすれば良いのだろう・・
⇒これが僕がずっと抱えている課題です。