「カメ止めのスゴさを再認識」キャメラを止めるな! 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
カメ止めのスゴさを再認識
あらためてカメ止めのすごさを確認できた。
たくさんの仕掛けがあるけれどカメ止めの真意は家族の絆だった。
成長して気持ちが離れてしまった娘。
蛙の子は蛙で監督補をやっているが情熱が先走ってくびになる。
One cut of the deadの撮影は、文句言われまくりの父と、周りが見えなくなる母と、空気読めない娘、それぞれの適応障害をかかえた三人家族が、世間様を見返してやる舞台(=痛快な復讐劇)になっていた。
それらの伏線と回収がきれいに決まり、さいごに家族の絆の本主題が浮かび上がるさまを、このリメイクによって再び思い知ることできた。
というか、リメイクを見たのになぜかカメラを止めるなのことで頭の中が占有されてしまうという体験をした。その意味でとても忠実なリメイクだった。
じぶんは映画を見る前や後でよくRottenTomatoesを参照する。
カメラを止めるなのトマトメーターは100%。
どんな映画でもRotten(腐れ)意見があるもんだが、カメラを止めるなは健康なトマトだらけで真っ赤だった。
世界中から集まっている辛辣な批評家の中でだれひとりカメラを止めるなに反意をかかげている人はいなかった。
それらの批評を抜粋し、カメラを止めるながどれほどすごかったのか、おさらいしておきたい。
『複雑な映画制作プロセスを可能な限り解決するというコミットメントの祭典』
『新鮮で楽しく、非常にクリエイティブ』
『巧妙に解きほぐしていく。思慮深く、独創的でユニーク』
『ショーン・オブ・ザ・デッド以来、おそらく最もおかしくて、間違いなく最も暖かいゾンビコメディー』
『核となるのは驚くほど感動的な父娘の物語』
『映画製作のカオスおよび妥協に対する多幸感に満ちた頌歌』
『創造性、家族、忍耐力、そして映画制作にたいする挑戦への陽気な賛歌』
『アンデッドの映画にしては生き生きしている』
『記憶に残る登場人物と父親が娘とホラー映画への共通の愛をめぐって再会するのを見る予想外に甘いサブプロットを備えたさわやかで真面目な映画』
『事故とルーチンと組み合わせ。間違いと想像力が映画製作プロセスをどのように邪魔するか/支援するかを目撃できる』
『疲れたジャンルに新しいギミック』
『サムライミの死霊のはらわた以来の新鮮な驚き』
『果てしなく巧妙で、あえぎながら面白く、美しく構成され実行された、ジャンルのなりすましと舞台裏の風刺のミックス』
『部分的にはうまくいきませんが、そうではありません。結局のところ、映画全体が失敗の上に成り立っています』
(上田真一郎監督のカメラを止めるなに寄せられたRottenTomatoesの批評より)
このリメイクはむしろ元ネタのスゴさを再確認させたが、カメ止めで(個人的に)いちばん好きなところは弱かった。
カメ止めでいちばん好きなシークエンスは、もう放送中止しかないとあきらめが入ったとき真魚がにわかに活気づくところ。
真魚が現場をのっとって指揮をとる一連の場面は、空気を読めず場にあわせることができない社会不適合者が、じっさいにはたぐいまれなリーダーシップの持ち主であるという、言ってみればカメ止めの白眉でもあったと思う。
リメイクではその部分が弱かったが、それは演者が真魚じゃないからでもあった。
真魚があんまり活躍していないことで日本の映画/ドラマ業界の程度(見る目の無さ)がわかるってもんだ。
ところでRottenTomatoesのカメ止め評で気に入っているのがあり、それは──
『1つのことを期待してこの映画に参加する場合は、最後までに心が変わることを覚悟しておいてください』
──という言説。
映画慣れしているにんげんは映画を「だいたいこんなかんじだろう」と思って見てじっさいだいたいそんなかんじなのを確認するわけである。
ゾンビ映画見に行って慮外の家族愛が見えたら、そりゃ驚くよ。という話。