祈り 幻に長崎を想う刻(とき)のレビュー・感想・評価
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これが岸田國士戯曲賞受賞作品?
原作は田中三千夫の戯曲「マリアの首」で、岸田國士戯曲賞を受賞している。その戯曲の映画化である。
私事で恐縮だか、今年の春夕食時にビールを飲んだ。その後、居間で眠くなりそのまま寝てしまった。1時間位眠っただろうか、ぼんやりした頭の中に突然原爆が炸裂し外が真っ白になり、次に熱線に襲われ、大声を出して頭の中が真っ暗なった。死んだんだと悟った。夢だと分かり安心したが、暫く恐怖で動くことができなかった。66年生きて、こんな夢を見るのは初めてだった。もしかすると、前世で私は広島或いは長崎での犠牲者じゃないかと思うようになった。私が生理的に殺人や流血、残虐場面を嫌うのは、前世での体験を避けようとしているかもしれない。
さて、この映画の評価である。原作を読んでいないのでなんともいえないが、映画化する際に、余分なものを入れ込み過ぎた気がする。看護師をしていながら夜には売春をする高島礼子。保母をしながら、夜は場末で詩集を売る黒谷友香。この設定もおかしい。共にカトリック信者で教会の再建を願っている。ともに美人だが、演技が固い。悪い作品ではないが、また良い作品とも言い難い。戯曲の舞台をそのまま映画に撮った方がよかったと思わせる作品だ。
差別と偏見に対するアンチテーゼ
この映画では「原爆の後遺症に苦しむ者」と「キリスト教徒」といった当事者が周囲の人間からの偏見に耐え時には戦わなければならない姿が映し出されていた。差別を恐れ医者に行かない被爆者も誰かに頼りたい心情は隠せない事を描きつつ、それとは別に傷痍軍人、売春婦といった当時の社会的弱者達もまた周囲からの偏見と差別を避けるように懸命に生きる姿が描かれていた。
生きる為には売春婦もヤクザもお互いを利用し合っていたし、左翼の人間が原爆被害者を自らの影響下に置こうとするのも自然な成り行きであった時代。こういった微妙なバランスは崩れ易くヤクザの間では抗争を生み、被害者の信仰が影響力行使に邪魔になればキリスト教への偏見を利用して弾圧に転じる左翼の姿は現代にも通じる人間集団が起こす宿痾の様に感じさせられた。
実際、日本社会では「原爆症」と「キリスト教」は戦争に負けた傷跡と弾圧の過去というある種「見たくないモノ」と定義つけられているような気がする。この映画は自分とは異なる者への差別と偏見が社会のいたるところに潜んでいることを示唆している。
原作を知る人達からは物足りないとのネット上の評価はあるものの、おそらく切り捨てられたフィルムを繋ぎ合わせればもう一つの映画が出来そうなボリュームの内容を110分という尺の中で表現する難しさを感じさせられた気がします。
松村克弥監督の前作「ある町の高い煙突」では井出麻渡と渡辺大の役割分担を今回の「祈り」では黒谷友香と高島礼子に演じさせ、「尖った部分」を「まろやかな部分」が抱えるように場面を回す手法が取られていた。前作は事実の積み重ねを理路整然と構成されていたのに対して今回は信仰という大変微妙なテーマを後半部分でギアを上げてファンタジー風に描いていたのは、松村監督に引き出しの多さが感じられました。
【マリアの首】
この作品は、何度も再演され、岸田賞も受賞している有名な戯曲「マリアの首」を映画化したものだ。
だが、残念ながら、過去に観た、映画と舞台を融合させたような実験的な作品や、映画なんだけど舞台を観ているような錯覚が心地よい作品という水準にまで達しているとは思えなくて、改めて戯曲の映画化には工夫が必要だなと考えてしまった。
この何度も再演された舞台を映画として記録して公開した方が良かったのではないかとさえ考えてしまう。
偉そうに、すみません。
あと、僕個人としては、実際に被曝し壊れたマリアの像、つまり、マリア像の頭部は、信者の代表者や、大学の先生などによって大切に保管され、後に、天主堂に返還され、バチカンも訪れるなどしていることを知っていたことも影響してしまったかもしれません。
ただ、浦上第四崩れの話と、原爆遺構として、旧天主堂を残そうとする積極的な動きが出てこなかったことは、カトリック信者に対する差別が、ずっと残っていたことが大きな理由だろうと再確認させられて、より多くの人々が知るべき物語だとは思った。
合同市場
原爆投下から12年後の冬、被爆で外壁が倒壊し放置された浦上天主堂からマリア像を持ち出した信者の話。
それに纏わる話もあるにはあるけれど、パンスケ達とのいざこざや甲斐性無しなヤクザとの因縁話とか、原爆症と言わるけれど病院に行かない旦那との話に頭でっかちな学生活動家との話等々、方向性の異なるドラマばかりをみせられる。
被爆した市井の人々の心情をみせる話ではあるけれどちょっとエンタメ色が強いし、上っ面をなぞった様な感じがして、響くものはなかった。
虫のいいクリスチャン
製作陣の心意気は伝わってくるが、映画としての出来はあまりいい方ではない。ナガサキの直接の被爆者と残された人々の生活、長崎の復興と暴力集団の発生、売春婦の様子などを群像劇的に描こうとしているのだが、逆に散漫になってしまった。予算の関係だと思うが、シーンの多くが演劇的で奥行きに乏しく、60年以上前の時代を感じさせる映像が皆無だったのも残念である。
俳優陣では、黒谷友香は棒読みの割に滑舌が悪く「詩集はいらんね」がどうしても「しゅうはいらんね」に聞こえて「しゅう」は何のことだろうと考えたほどだ。冒頭のシーンだけにこれは痛かった。高島礼子は悪くなかったが、黒谷友香のマイナスまではカバー出来なかった。
唯一よかったのが、田辺誠一が演じた桃園が戦争について語るシーンで、登場人物に感情移入したのはこのときだけだった。核兵器をなくすよりも戦争そのものをなくしたいと桃園は言う。まさにその通りである。難民問題も、発生した難民の処し方ばかりが議論されるが、難民を生み出した戦争や紛争についての議論が決定的に不足している。
柄本明はいつもの飄々とした演技。寺田農の議員さんは正直に本音を言い、当時の長崎の政治状況がわかりやすく理解できた。両ベテランの安定した演技と田辺誠一の名演で、本作品はぎりぎり映画としての形を保てた気がする。
舞台は1957年で、前年に成立した売春防止法が施行された年だが、全国に行き渡るには時間がかかったようだ。主人公鹿が昼は看護婦で夜は売春婦をしていても普通に受け入れられている。男も女も煙草を吸い、おおっびらにヒロポンを売買し、ポン中になる者もいた。時代背景は正しく描かれていると思う。
当方はクリスチャンではないが、信者や教会の存在は否定しない。タリバンと違って他人に信仰を強制しないところがいい。親戚や知人の多くは教会で結婚式を挙げたが、クリスチャンは誰もいない。建物としての教会は、雰囲気があって嫌いではない。誰でも入れるように門戸を開いているところもいい。「レ・ミゼラブル」を思い出す。
聖書の骨子は「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という部分だと思う。天にいる神は常にあなたがたの行ないを見ているから、不寛容な行ないをすれば天国で不寛容な処遇が待っているという訳だ。
しかし本作品にはその寛容さがどこにも出てこない。むしろ不寛容な言葉ばかりが出てくる。その割に聖母マリアに許されようとする。虫のいいクリスチャンである。そういえばアメリカの前大統領トランプもクリスチャンだ。バプテスマのヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」と人々に言ってバプテスマを施したが、どうやら現在のクリスチャンは天国を信じなくなったようである。
被爆したものと共に伝えていく
戦後76年過ぎて被爆者も多くの方が亡くなられてます。その中で被爆物や被爆樹は当時の悲惨さを伝えていく重要なものです。長崎でこういうことがあったことは知りませんでした。是非、後世に原爆の悲惨さを伝えないとと思います。この映画もひとつのきっかけになって唯一の被爆国である日本から伝えていけたらと思います。映画の中の台詞だけど
長崎が最後の被爆地になることを願って❗
長崎のキリシタンや被爆の歴史に関心があったので観賞。原爆で廃墟とな...
長崎のキリシタンや被爆の歴史に関心があったので観賞。原爆で廃墟となった浦上天主堂が再建されずにいた史実(1959年取り壊され再建)をモチーフに、バラバラになったマリア像を復活させようとする人々の物話。
壊れた天主堂のセットをはじめ、被爆した長崎の光景などはよく再現されていたと思う。
もとが演劇とのことで、演出やカット割りもそれっぽく、それはじきに慣れるのだが、登場人物に長々と背景説明的な台詞を語らせるシーンが多いのはやや鼻についた。
あと、メインの人物たちはみな戦争や原爆による身体と心の傷を負っているが、各人の物語が信仰とマリア復活への動機にどう関わっているのかがはっきりせず、そのためクライマックスが美輪さんのインパクトしか残らなかった(苦笑)
ストーリーはおもしろいが、舞台から映画ならではの作品に昇華させるには足りなかった印象。
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