「先輩同僚があの頃、“危機”にあった僕に言った 「おい〇〇、これうちの子が昔使っていたやつだけど持ってけよ。❮一輪車の練習❯ってどうやるか お前わかってるか?」」幸せの答え合わせ きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
先輩同僚があの頃、“危機”にあった僕に言った 「おい〇〇、これうちの子が昔使っていたやつだけど持ってけよ。❮一輪車の練習❯ってどうやるか お前わかってるか?」
開演の前、
いきなり心臓を ぎゅーっと掴まれてしまった、
館主が
「この映画は、脚本家のウィリアム・ニコルソンが、幼い日の両親の離婚劇に傷ついて、自身のその体験を脚本に書き起こし、そしてニコルソン自らが監督を務めたものである」、また
「我々が聞いてしまってよいのかと戸惑う両親の会話が織り込まれている」・・と、
館主が舞台横で、上演前の小さな解説をしたからだ。
まったくそんな経緯を知らなかった僕は、このいきなりの「告知」に何の心の準備も出来ておらず、心が騒ぎうろたえる中、あっという間に館内は照明が落とされて暗くなってしまった。
身じろぎも出来ず、バツ1の男がひとり。
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うちの息子も言ったっけ、
自分は両親のあいだのメッセンジャーボーイではない。伝言は断ると。
泣いていた。
子供は両親の離婚を目撃して傷つく。
幼い魂を傷つけてでも決断する両親の選択は「きっと正しかったのだ」と、大人たちは自分に言い聞かせながら、振り返り振り返り行くしかないし、
時には逃げるようにそこを立ち去ることしか出来ないのだと思う。
ナポレオン軍の敗残兵は象徴的。
父親ビル・ナイ、
母親アネット・ベニング、
息子ジョシュ・オコーナー、
この一家三人の痛みの過去を、監督が自己の辛い体験をそれぞれ出演者たちに重ねて演じさせる形で、あの頃を反芻させ、捉え直しをさせてみる。そういう作品だったと思う。
そして恐らくこの作品は、監督の再出発のための映画なのだろうが、僕自身においても、ずっと引きずっているモヤモヤを明らかにさせてくれる映画体験だった。
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ホープ・ギャップ。
白亜の岩肌が水面から垂直に立ち上がる崖。世界的景勝地。英国南部シーフォードの海岸だ。
劇中、なかなかその全容を写してくれずに観衆をじらすのだが、ようやく壮大なパノラマが現れて、大スクリーンに立ちはだかるあの偉容には、やはり言葉を失うものだ。
「本作の4人目の主人公とも呼べる不可欠な存在だ」(cinema cafe.net )との解説には頷くほかない。
ホープ・ギャップ。
地の果ての秘境なのかと思っていたら、意外にも人口2万人の瀟洒な街に隣接した、町民たちのお散歩コースだった。
ホープ・ギャップ。
その意味は「希望」。「段差、途切れ、隙間、食い違い」。
希望と断崖と誤解が、こんなにも人間の生活の場の近くにあることに驚く。
今後、
夫も、妻も、子供も、
一緒に暮らした日々をかの地=ホープ・ギャップの方角に思い出しながら生きていくのだろう。
監督のご両親も、この映画を、どこかの街の映画館の暗がりで観るのだろうかなァ。
父親と母親は、どんな思いでこのスクリーンを見つめるのだろうか。
いつか僕も“反省会”が必要なのだろうか。
ラスト、
ジェイミーがシーフォード・ヘッドへの坂道を登りながら、子を真ん中に草原を手を繋いで楽しそうに進む親子3人の幻を見る。
目を落として、もう一度目を上げると3人の姿が消えている。
僕は
❮一輪車の練習の話❯を思い出す。
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再婚同士は割とうまくいくそうだ、
失敗の原因も、
自分の力不足の理由も、
受入れ方や身の引き方も、体験上お互いにわかっているからだと言う。
でも心の崖は、誰しも一生心に抱えて生きていくんだよね。
今晩は
有難うございます。
そうですか・・。お互いにもう少しだけ、頑張りましょう。
相変わらず、家人と息子はまったりしていますよ・・。
家人が今作のアネット・ベニングみたいに、夫に平手打ちをする人でなくって良かったなあ、と思っているNOBUでした・・。(でも、怖い・・)では。
今晩は
慎重に言葉を選んで記しますが、気に障ったらごめんなさい。
私は、家人と連れ添ってソコソコになりますが、天上天下唯我独尊男につして来てくれた彼女には、頭が上がりません。
今、内定が決まった息子が長い盆休みで帰って来ていますが、私が会社に行っている間に二人でまったりしているようです。
家人はとても嬉しそうです。
昨日鑑賞した「フレンチアルプスで起こったこと」を見ても、幼き子供の前で親同士が言い争う姿を見せてはいけないのだなあ、と思った次第です。
パラリンピックは、ナカナカ観れないのですが、オリンピックと同じく一生懸命に目標に向かう人の姿は、崇高なモノであるなあ、と思いますね。
では。何時も、ありがとうございます。