「全体的にイマイチな出来、非常に惜しい。」20歳のソウル はなのおくがツンとすらさんの映画レビュー(感想・評価)
全体的にイマイチな出来、非常に惜しい。
この映画を観るまで「市船ソウル」やそれを作曲して若くして亡くなった浅野大義さんの存在を知らなかった。
短いフレーズを繰り返す「市船ソウル」はキャッチ―で、応援曲としてはとても上がるいい曲で、晩年に作曲された「Jasmine」も良い曲で、エンディングで流れるDedachiさんのアレンジされたVerも感動的で素晴らしかった。
エンドクレジットには他の作曲された曲も使われていたようなので、そちらもじっくり聴いてみたいと思った。
浅野大義さんに惹かれ、彼を埋もれさせまいと書籍、映画にしようと思った制作陣の気持ちが、この映画を観たとき強く感じた。
ただ、映画という一つの作品として観たとき、正直なところ傑作とは言い難いものになっているのがとても残念だった。
一番気になった部分はすべてにおいて大雑把なところだ。
キャストのインタビューで、ほとんど一発撮りでこれでOKなのかと驚いた場面があったという発言がある。
監督は一種のドキュメンタリー表現を狙ったのだろう。あえて作りこまず生々しさというか、リアルな芝居をみせたかったのだろう。
実際に起きたものを描くというところではアプローチのひとつとして悪くはない。だが、それがうまく機能していなかった。
感情の表現が極端な部分や、たくさんいるエキストラまで演出が行き届いていない場面が見うけられるなど細部まで調整がされていない場面が散見された。
後半泣く場面が多くあるが、すべてが同じ号泣レベルになっており、こういったところは演出をつけなければ現実味が薄れてしまい嘘っぽく見えてしまう。
特にクライマックスの葬儀の場面ではそれが顕著に出ており、主要キャストとエキストラの感情の温度差が大きくなってしまい、悪いコントラストが生まれリアリティが大きく下がっていた。
リアリティを狙うのであれば細部まで気を配らなければならないのだが、そういった部分には一切目が向けられていない。
画作りの部分でも同じことが言える。カメラは無駄に揺れる場面が多く、カットやショットも間延びしている場面もあった。
躍動感のある場面も、しっとりと落ち着いた場面も、緩急がなくすべてが同じ画作りになってしまっている。
カメラを据え置くだけでも画は変わる。少なくとも葬儀の場面では、忙しなくカメラを動かすのではなく、落ち着いて撮った方が感動的になったのではないだろうか。
照明も電気を消した部屋の中は不気味な色調でホラー映画のような雰囲気になっており、本当にそれで良かったのかと首をかしげてしまう。
撮影に関しては失敗しているとしか思えず、監督はなぜこれで良しとしてしまったのか、残念だ。
また、ライブハウスのシーンで身内のバンドを出演させたのはどういった意図があったのだろう。
このライブハウスの場面は浅野さんの復帰を祝う場面なのだと思うが、なぜステージ上で演奏しているのか、なぜライブハウスなのかと脈絡がなくよくわからない場面だった。
実際のエピソードなのであれば、その時に存在しないはずの、しかも監督がMVを制作し自身の企画するイベントにも関係するバンドを出演させたことには疑問が残る。
音楽についても使い方が残念だった。
浅野大義さんと音楽は切り離せないはずなのに、「市船ソウル」作曲のエピソードがダイジェストのような処理で描かれていたり(作曲の動機となる部分はあるが、曲の出来上がるまでが省略されている)、残された命を燃やし作られた「Jasmine」もあっさりと途中で切ってしまうなど、音楽については制作陣は興味がないように感じてしまう。そこにこそ彼の人柄やドラマがあったのではと思い、描かれなかったことが残念に感じた。
脚本は構成力に欠けエピソードの羅列に終始しており、またキャラクターの描き方も拙く思えた。
ドキュメンタリーなのであれば、エピソードとエピソードの間が歯抜けでもしょうがないが、劇映画である以上ブリッジとなる場面を描かなければ物語が成立しなくなる。佐伯斗真の部活と好きな音楽との間でのもがきと和解や大学でできた彼女の登場など、描写不足でわからない部分が多すぎる。原作となっている小説を読めば補完できるかもしれないが、それでは映画にした意味がない。
キャラクターに関してはモデルがいるので致し方ないと思うが、一般の人でも掘り下げればそれぞれの個性が見えてくるのではと素人ながら感じてしまう。
脚本、撮影、演出と全てにおいて細かい部分に目を配れず、大雑把に作りすぎている印象。それゆえ、泣けそうな場面でも気持ちが切れ冷めてしまう。
本当に奇跡のような話なのでこれが世に大きく出たことは意義がある。ここまで来るのにも色々と苦難もあったことだろう。とくに原作者で脚本も担当した中井由梨子さんは、誰よりも情熱をもって取り組まれたことだろう。それはプロダクションノートを拝見しても伝わってくる。
それならば、もっと完成度あげたものにしてもらいたかった。残念でならない。
しかし、監督や脚本家だけのせいではないと思う。第三者の目として入らなければならないはずの日活や担当プロデューサーにも原因があるだろう。脚本の不備、出来上がった画など途中でアドバイスや修正を入れることはできなかったのか。
色々な事情があるだろうが、それでもいいものにしようと双方努力してほしかったところである。
1本の映画としては落第点ではあるが、浅野大義さんを知ることができ、彼が残したものに触れられたことはとても貴重で感動的な体験だった。
たくさんの方に彼の残した想いや音楽が届いていることは本当に奇跡のような出来事で、その瞬間に今いるというのは他人事ながらうれしくも思う。こういった体験も映画の良さなのかもしれない。