「ヴァイオリンでは救われなかった」天才ヴァイオリニストと消えた旋律 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
ヴァイオリンでは救われなかった
仏教の開祖であるゴータマ・ブッダは、ひとつの著書も残さなかった。残したのは口伝のみである。彼の説法は常に口頭で行なわれた。経典に残したのは後世の弟子たちである。キリスト教のイエスも同じだ。文言をパピルスに刻んで聖書としたのは、やはり後世の弟子たちである。イエス自身は教えを始めて以降は文字ひとつとして書かなかった。
法事で禅宗の坊さんが歌うのを聞いたことがある。お経の中には節がついているものがあるとのことだ。この坊さんの歌がやけに上手くて、テノール歌手の歌を聞いているみたいで大変に見事だった。
ベトナムに行った際にもベトナムの坊さんのお経を聞いたことがある。日本のお経よりもキーが高くて、語尾が上がるようなアップテンポなお経だった。寺を訪れたときに聞いたのでそれがお経だと解ったが、別の場所で聞いたらベトナムのラップかと思ったかもしれない。
本作品ではユダヤ教のラビが歌う。しかしラビが歌ったのは旧約聖書ではなく、強制収容所で亡くなった人々の名前だった。原題の「The Song of Names」はこのシーンに由来するのだろう。
本作品のフランソワ・ジラール監督が2016年4月に演出した舞台「猟銃」をPARCO劇場で観劇したことがある。記憶が少しあやふやだが、中谷美紀の独演で、赤いドレス、下着姿、和服と、ゆっくりと着替えながら台詞を言い続ける。服装ごとに違う3人の女を、中谷美紀がひとりで演じるというややこしい劇だったと思う。井上靖の微妙な叙情がいまひとつ伝わって来なかったのが残念だった記憶がある。当方の感受性不足かもしれない。中谷美紀は2007年のジラール監督作「シルク」にも出演していて、流暢なフランス語を喋っていた。
本作品は映画だから舞台よりもわかりやすい。少年マーティンは最初ドヴィドルに嫉妬するが、あらゆることで実力が違いすぎて、嫉妬はすぐに尊敬に変わる。罰を恐れて世の中に盲従するマーティンに対して、ドヴィドルはどんなルールや基準からも自由だ。二十歳を過ぎても友情は続くが、自由なドヴィドルと常識や規範に縛られるマーティンという図式は変わらない。
マーティンがドヴィドルに願うのは、自分との約束だけは守って欲しいということだ。しかしいちばん大事な約束が破られてしまう。それを忘れることが出来ないまま35年が経過したある日、コンクールに出たひとりの少年が松脂の容器にキスをするのを見て、マーティンの追跡劇がはじまる。ドヴィドルの癖と同じだったからである。
ドヴィドルと関係した3人の女たちが登場する。ドヴィドルの天才に魅せられ、ドヴィドルの我儘を愛し、ドヴィドルの人生を受け止めた女たちだ。マーティンはドヴィドルを追いかけ、35年前の真実を知る。すべての空白が埋まれば、それ以上ドヴィドルを追いかける理由はない。
ドヴィドルを変えたのがラビの歌だ。4年前にユダヤ教を捨てて無宗教となった筈のドヴィドルだが、たった一度聞いたこの歌によって、ユダヤ教の教徒となる。しかもとびきり敬虔な教徒だ。
ドヴィドルはヴァイオリンでは救われなかったのだ。ヴァイオリンの演奏がもたらすのは人々の賞賛と金銭だが、ドヴィドルにとってそれはゴミでしかない。マーティンはそこだけがどうしても理解できない。世界的なヴァイオリニストになれたというのに、その道を捨てたドヴィドル。彼を救った信仰とはどんなものなのか。覚束ないラテン語で祈りを唱えてみるマーティンなのであった。
ジラール監督はラビの歌声をハイライトシーンにしたかったのだと思うが、やはり目立つのはヴァイオリンの演奏シーンだ。ヴァイオリンが演奏されるたびにストーリーを離れて思わず聞き入ってしまう。どの演奏も驚くほど音色が美しい。演奏したレイ・チェンは21世紀を代表するヴァイオリニストだ。本物の天才である。