モーリタニアン 黒塗りの記録のレビュー・感想・評価
全37件中、1~20件目を表示
政治映画ではなく人間性についての映画
ある日突然、911テロのリクルーターの嫌疑で捕らえられたモーリタニア人のサラヒ。
物語前半では、サラヒが潔白かどうかについてはあえて明示しないまま、彼がグアンタナモ収容所に送り込まれるまでの出来事を比較的淡々と描く。
後半で、彼が収容所で受けた仕打ちとその後の顛末が明らかになる。内容のインパクトもさることながら、「自由の国」アメリカの中枢で横行する隠蔽体質と同調圧力に唖然とするしかない。
それにしても、黒塗りで開示したとはいえ、あんな暴虐を一応文書にして残すというのは、褒める気は全くないが内容と事務処理の几帳面さのギャップがすごいなと思う。外に出せない内容と自覚しながらも、内輪の倫理では正当な行為という認識だったのだろうか。
黒塗りの記録なんていうと、日本政府絡みの報道を連想する人は多いだろう。だが結局、特定の国家の特性というより、人間の作る組織ならどこでも起こり得ることではないか。
マクドナルド監督は、本作を「政治映画」ではなく「人間性」についての映画だと述べている。どの立場の人物も、正しいことをやろうとしたんだということは理解しておくべきだと。「無実のテロリストが善で、アメリカ人はみんな悪」というのも違う、現実はもっと複雑だとも言っている。
視点の偏りを減らすよう配慮しながら、エンタメ要素も大切にしたメインストリームの映画に仕上げる。このバランス感覚が素晴らしい作品なのだ。
それを、日本版公式サイトに掲載された識者コメントのいくつかや、リンク先の記事の一部が自身の政治的主張と結びつけ、台無しにしている。こういった題材の作品がそのように利用されることは避けられないが、少々残念だ。
911がアメリカ人に与えた衝撃は、日本人の想像を絶するものがあるだろう。
カウチ中佐はこのテロで親友を失い、スラヒを死刑にするための弔い合戦のような心持ちで裁判に臨もうとした。彼は幸い遺恨を凌駕する良心の持ち主だったが、これはむしろ稀有なことだ。
テリーは、そこまで強くいられない普通の人間の象徴だ。彼女の心の底にも、アメリカ人として911で受けたショックがわだかまっている。だから、弁護する立場でありながら、サラヒが犯人と思わせる文書が出てきた段階で一度は耐えられなくなった。
法律家としてどうなのかという見方もあると思うが、カウチ中佐のような揺るがぬ良心や、ナンシーのような強固な信念を持つ人間は少ない。テリーの弱さは駄目なものとして描かれたわけではなく、この物語を勇者だけのものにせずリアリティを担保する役割を果たした。
テロでアメリカ人が受けた心の傷は深い。それでも、恨みを晴らすために必要だからと無差別に生贄を作り出してはならない。誰もがそういった誤りに陥る心の弱さを秘めているからこそ、一人一人が自戒することでしか負の連鎖は断ち切れないのだ。
エンドロールで流れる、モデルになったスラヒ本人の明るく穏やかな姿に心が和むと同時に、無実の罪を着せることの残酷さに一層心が痛んだ。
なお、ストロボのような激しい光の明滅が結構長く続くシーンがあるので、苦手な人は注意してください。
恐ろしくおぞましい
人間は、自分に直接何かをした人じゃなくても、ここまで残酷でおぞましい行為ができるのか…という事実にゾッとしました。
同時多発テロ以降、疑わしきは罰せという雰囲気があったことは疑いようがありません。
教会でのカンバーバッチのキリスト教の祈りのシーンと、主人公たちのイスラム教の祈りのシーンが美しかったです。なんというか、無宗教のわたしからしたら、どの宗教も似たようなこと言ってるのになぜこうなってしまうのか…とも思いました。
釈放された御本人が、これから平穏に生きて行けますように。
全てのひとに固有の権利を尊重する
憲法には但し書きはない。憲法が人権を保証するのに、terms and conditions はない。
人権は優しさとか思いやりとかじゃないって100万回言っても日本の人には理解されない。このような激烈な人権侵害、それに対する戦い法廷闘争を見ればわかること。グアンタナモに拘留されていた911関連の収容者については断片的に知っていたが今も多くの謎がありその一端を行き詰まるようなこの事実、本そして映画として強く告発されていることに敬意を表したい。、ブッシュとラムズフェルドは論外だがオバマ政権になってもさらに7年拘留延長されていたことへの驚きだと残念さ。文書のシステマティックで厳格な管理、、これも日本にはなさそう。
小さな隙間から見える景色、情報、漏れ聞こえる音を丁寧に時に苦しい中でも逃さず自分の中に取り込んでいたモー。看守ともやがて少しばかりの体温レベルのつながりができる。冒頭のモーリタニア砂浜、テントの中の結婚式、車で連行される夜の街灯に佇む母親、キューバの眩しい空、取り調べ室の冷たい蛍光灯、窓のない独房、房から出た時の眩しさ、ラムズフェルド案件として異常な拷問が始まった時の点滅する蛍光灯、運動場から仰ぐ青空、隙間から漏れる光、、眩しい光の中で思う故郷モーリタニアの海、家族たち。エンドロールで出てくるご本人の映像や写真、明るくて諦めないユーモアも信仰心も忘れない素敵な人自分の人生を切り開きみずからを救った人となりがよくわかる。
助手のテリは最初は思いやり、優しさ、憐憫という感情からモーを信じ支援しようとする。ジョディフォスターえんじる人権一筋な弁護士はその人が有罪かどうか罪を置かしたかどうかに関わらず人権はいかなる場合にも如何なる個人にも等しく例外なく尊重されなければならないないと。
その人を死刑にすること、テロに勝つことを命題に担当するも法律が人権が守らめないことに驚き行動する軍人。
テロとか、人権とか、多分に気分、いや集団的怠慢と狂気により偏った世論や気分が形成される。最初感情に流されがちなテリも、911で友を亡くした軍人も。
それにしてもこのような作品、書籍を映画化し、それをジョディやカンバーバッチのようなスターが堂々とやってくれることがすごくて、日本もこうなってほしい。
そして全く人を人と思わないような酷いことが世界中でアアメリカでも日本でもどこでも連綿と続いていること、なんか映画見ながら、あまりにもダメな社会に好すぎるから死にたくなる。
ジョディフォスターが良い。とても良い。
人の道に非ず…
9.11は今でも衝撃的テロ行為で映像が脳裏にある。当然、テロリスト達を逮捕、実刑に処すことはあって然るべきだ。躍起になるのもわかる。しかし、映画ザ・レポートでもあったが無理やり自白強要する行為は正義と呼ばれるものではなく、非人道的行為だ。モハメドの語る再現シーンはおぞましく、胸にズシんと来るものであった。映画は一種の法廷闘争劇物ではなく、政府側であるスチュアート中佐の正義を貫く姿勢が最大のハイライトだと思う。被告の有罪無罪に因われず、あくまでも被告人の権利を主張するクールな弁護人ナンシーが、彼が受けた拷問を知り、寄り添うようになる姿も脚色あるかも知れないが良かった。この変わり様を演じるジョディ・フォスターはさすが。無罪になった後も長年拘束されたのが理不尽でならない。エンドロールで彼の笑顔が見れたのが救いだった。しかし、こうした拷問行為が余計に反米感情を生み出す負の連鎖に繋がると思う。
目が離せなかった
こういう映画を見る度に、目の前の情報や人の口にする言葉だけに惑わせれてはいけないと痛感する。
衝撃的な事件が起き、報道がなされ、容疑者が映る
報道は、少しでも興味を引く映像や言動にスポットを当て
そこを浮き彫りにして、さらに群衆を煽る
現在では、それがネットで拡散され、誹謗中傷や
炎上という現象が起きる
本当の真実はどこにあるのか、疑問も持たない者が
弱きを追い込む事もある
9.11では、中東系の人種差別が起き、映画の中にもあったが
何百人が拘束された
拷問し、精神的に追い込み、自白させ、死刑にさえ
しようとする
心情はわかる、理解出来ないが、実際に9,11の被害に遭った
方々やその家族、同僚にとっては同じ肌の色をした人は
同じように見えるのだろう
昔の日本にも、冤罪は多く存在した
追い詰め、暴力をふるい、自白を引き出す
生活環境や出自が、犯罪の根拠とされる事もあった
「その時間と労力を、真犯人探しに使えよ」と
腹立たしさすら覚える程だ
不都合な真実は闇に葬り、掘り出されない奥底に
埋没させようとする
それを掘り起こしたのが、今作である
スラヒ氏の忍耐と、臭いものに蓋をしてはいけないと
立ち上がった弁護士ホランダーの執念が見えた
現実には、そうやって有罪の者を無罪にしてしまう
事もあるのだろうと理解しつつ
エンドロール後に見せたスラヒ氏の笑顔が
この映画の根本的な意味なのだと納得した
ジョディ・フォスター、ベネディクト・カンバーバッチ
両俳優の演技は素晴らしいながらも、薄い印象を
受けるのは、浮き彫りにしたい事実を浮き上がらせる
為なのではないかと考えた
世の中から、不条理が減り、司法制度に本当の正義が
取り戻され、世の中から冤罪や誹謗中傷で苦しむ人が
少しでも居なくなる世の中を願いつつ
スラヒ氏と同じような境遇の人が、少しでも早く
苦しみから解放される事を心から祈る
この世の中には、苦しみを与えられて然るべき輩が
大手を降って、のうのうと生きているのだから
一個人を徹底的に貶める
9.11がアメリカの受け入れがたい出来事だった事は間違いない。
ただ受け入れがたい理由が立場、人種、宗教等々によって相当な違いがある。
9.11を引き起こした犯人たちを絶対に許さないと言うスタンスから、怪しいものはまとめて勾留し証言を無理矢理に引き出す。
アメリカの安全を壊したものたちに鉄槌を落とす…その為には疑わしきも罰する勢いだ。
施設内での拷問は一昔前に聞いた事があるようなやり方だったが、やはりエグい。
光の明滅や轟音で眠らせないとか、速攻で参ってしまうだろう。
黒塗りを生み出した仕組みを考えると、その内何もかもぬりつぶされそうな恐さがある。
ジョディ・フォスターとカンバーバッチの二人の役どころが与えられた立場も目的も違うが、信義に基づいて行動できるのは希望を感じられる。特にカンバーバッチ演ずるスチュワート中佐は立場上拷問を隠す側に回ってもおかしくないのに公正な立場を貫いたのは驚きだ。
しかしもっと驚いたのはスラヒだ。
長期間の勾留、拷問に耐えて無罪を訴える…。
真似できそうにない。
彼の頑張りが超人的だった事とその後の体験談を書ける所が凄い。
ある意味、アメリカの懐の深さ、過去を検証できる証拠を残せる(黒塗りでも残す)やり方は「黒塗りで残してどうする?」とは思う。
だが残す事で異様さは伝わるし、時代が変われば特定のベクトルに支配されず公正な判断でモノを見ることが出来るようになるかもしれない。
独善と化した正義は、正義と呼べるのか…?
以前、クリステン・スチュワート主演の日本未公開作『レディ・ソルジャー』でも見た。
キューバにある“グアンタナモ収容所”。
ブッシュ政権の2002年に設立され、アフガニスタン紛争やイラク戦争など、アメリカに対してテロ行為を行った首謀者やそれに関わった容疑者らを主に拘禁。
“アメリカの敵”を収容。言わば、“アメリカの正義”の実績。
しかし、その実態は…
“悪名高き”と呼ばれる同収容所。
不当な強制連行、収容、長期に渡っての拘禁。
裁判にかけられる事も無く。
収容所内で行われていた看守たちによる拷問…。
『レディ・ソルジャー』はフィクションであったが、こちらは実話。
上記の悪行が全て行われた、衝撃の…。
多くの犠牲者を出し、人類の歴史上最悪のテロの一つ、“9・11”。
首謀者はオサマ・ヴィンラディン。アルカイダ。
犠牲者たちの無念に報いる為に、この許し難い大犯罪に対するのは、至極真っ当な事だ。
テロリズムは許さない。
しかし、“正義”という行為には、光と陰がある。
やり過ぎた正義。
暴走した正義。
盲目となった正義は、止める事は不可能。
もはや独善と化した正義は、それでも正義と呼べるのか…?
モーリタニア人、モハメドゥ・ウルド・スラヒの手記に基づく。
2001年11月。彼は家族や友人らと団欒していたある晩、突如地元警察に強制連行。幾つかの収容所に拘禁された後、グアンタナモ収容所に行き着く。
裁判もナシ。罪は…?
疑いがあった。9・11テロの首謀者の一人という“疑い”が…。
4年経って、ようやく事が動く。
2005年。人権派の弁護士ナンシーは、罪状も無いまま不当に長期に渡ってグアンタナモに拘束されているスラヒの弁護を引き受ける。
一方のアメリカ政府は、何としてでもスラヒを死刑にしたい。政府からスラヒの起訴を担当された海兵隊検事のスチュアート中佐は、あのハイジャックで友人のパイロットを亡くしており、そのテロをリクルートしたのはスラヒであると聞かされる。
スラヒを巡って、弁護vs起訴。
彼は無実の人間か、テロに関わりある一人か…?
結論から言うと、9:1。いや、9.5:0.5と言う所。
テロには一切関与ナシ。が、テロに関与した人物と認識あり。
正確に調べ挙げれば、一人の人物の範囲の事など、造作も無い事だろう。
が、その時のアメリカは違った。
何が何でも首謀者や容疑者を捕らえたい。罪を罰したい。早期解決したい。
その焦りと怒りが、眼を曇らす。
本来なら単なる疑いは、証拠として通用しない。
スラヒの疑いは潔白だが、際どくもあり。テロ関与の人物との認識や、かつてアルカイダに身を置いていた事も。そのアルカイダ在籍は、共産主義との闘いの為。アメリカに刃を向ける為ではない。
しかし、こうも疑いが出始めると、偏った見方からすれば、証拠となる。
後は強引に押し進めるだけ。強大な国の圧力の前で、一人の人間など…。
供述書などでっち上げればいい。
その手段は…、言うもゾッとする。
長時間に渡っての不安定な体勢。
色気で唆す。
強烈な照明。
水責め。
大音量。
暴行。
母親も逮捕すると脅迫。
非人道的な尋問。
…いや、そうではない。
拷問。暴力。
“アメリカの正義”の為とは言え、こんな事が許されるのか。
…いや、そもそも、そこに真っ当な“正義”はあるのか…?
これを“正義”と呼べるのか…?
もし、彼が無実と確定された時、どう釈明するのだ…?
その心配はない。
不利な点は、黒く塗り潰せばいい。
全て明るみに出たって、一切他言無用。
どの国も同じ。政府のお得意常套手段。
隠蔽。知らぬ存ぜぬ。
“法廷サスペンス”のジャンルになっているが、実際法廷シーンは多くなく、弁護側、起訴側、そして当人、三者三様のドラマをスリリングかつじっくり描いたアンサンブル・ドラマになっている。
弁護側。
ナンシーと、部下のテリー。
テリーはスラヒに人間的に接するが、ナンシーはあくまで自分の“仕事”として。スラヒがテロリストの一員であろうとなかろうと、有罪であろうと無罪であろうと、政府に不当に扱われている者たちの弁護をするだけ。一切の感情も私情も挟まない。…の筈だったが、グアンタナモの実態とスラヒへの仕打ち、アメリカの“闇”を知り…。
ジョディ・フォスターのさすがの名演。シャイリーン・ウッドリーも好助演。
起訴側。
作品的には、弁護側やスラヒと対する位置。政府の手先。なので、どんなに憎々しく描かれているかと思いきや、ステレオタイプな描写に陥ってない。スチュアートにも彼なりの信念がある。非常に優秀で、クリーンでもあり、調査を続ける内に、陰部を知る。グアンタナモの拷問。自分の信じていた正義が覆った時、彼は…?
ベネディクト・カンバーバッチが巧演。
そして、スラヒ。
本作は彼の物語だ。彼の受難の一部始終だ。
拘禁期間は14年。その間に母親は亡くなり、再会は叶わなかった。
彼への仕打ち、非人道的な扱い、拷問は壮絶なもの。
あの拷問に屈し、虚偽の供述をしてしまった事もあった。人は精神的に追い詰められた時、どうしようもなくなり、仕掛けられた罠の方へ逃げてしまうという。こうして幾多の冤罪が生まれる。
苦しみ、悲しみ、焦燥、恐怖…地獄の14年。
立場や状況が危うくなる事常々だったが、アラーに誓って、自分自身の正当性を貫き通す。最後の最後まで、それを諦めなかった。
その姿を体現。タハール・ラヒムが熱演。
ドキュメンタリーや社会派作品に手腕を発揮するケヴィン・マクドナルド。
アメリカの闇をあぶり出し、訴える社会派性と、一級のエンタメ性は的確。
劇作品としては、『ラストキング・オブ・スコットランド』より見応え充分の代表作になったのではなかろうか。
正義の名の下で、こんな事があったとは…。
全く知らなかった。
当然だ。
闘った者たちが居なければ、明るみになる事はなかった。
当事者たちに敬服する。
EDで、無罪が確定しても、アメリカ政府はスラヒ氏をさらに7年も釈放しなかった事がショック。
その時、どんな思いだったろう。
とてもとても計り知れない。
晴れて釈放された時、どんな思いだったろう。
私の陳腐な文章では、スラヒ氏の心情をとてもとても表す事は出来ない。
が、これはほんの一部。
9・11テロの関与者として疑われ、不当に拘禁され、無実の声が届かず、助けの手も差し伸べられる事も無く、闇に葬られた真実もまだまだあるだろう。
これをして、アメリカの正義だなど、笑わせるな。
アメリカの闇、罪である。
世界中でも冤罪や国の不当な行為は絶えない。
スラヒ氏の実話を見ていたら、日本の袴田事件を思い出した。これもまた罪深い。日本史上最悪の冤罪事件。
全てではないかもしれない。
が、真実は知れ渡り、悪しき行為は暴かれると信じている。
必ず。
今まさに、正義と思い込み、愚かな侵略行為を晒している国がある。
いつか、気付くのだろうか。今している行為が、間違いであった、と。
自身の罪はもはや免れない。
せめて、被害国や自国の未来の為にも、これ以上罪を被せるな。さらに増して、取り返しのつかない事になる。
キューバしのぎ
中国やロシアの言論弾圧、不当逮捕などが問題になっているが、“民主主義”同盟を標榜している国がこんなことをやっていては、何をか言わんやである。そもそもアメリカの司法が及ばないグアンタナモ収容所というのは、一体全体何なのか。友好国でもない他国にそんな基地を置いていること自体がおかしな話だ。
同時多発テロは唾棄すべき暴虐だが、その復讐のためにアメリカが引き起こした行動の結果はその何十倍もの犠牲者を出している。そのあたりはアメリカンインディアンに対する騎兵隊のやり方と変わらない気がする。
映画としては、ようやく裁判にこぎつけたところで、検察と弁護側の攻防が描かれなかったのが物足りなかった。交替した検察官がどのような主張をし、弁護人がどう論駁をしたのか。そのあたりがミソのはずなのだが。
この映画を見た範囲で言うと、理不尽な拘禁と拷問は当然非難されるべきだが、テロ実行犯のリクルーターという容疑については不透明にも思えた(むろん疑わしきは罰せずなので、釈放は正当だが)。最後のシーンは「真実の行方」のエドワード・ノートンがちょっと脳裏をよぎった。
それにしても、収監中の容疑者に提供する推理小説の最後の方のページだけ切り取っておくとか、やることが大人気ないし性根が腐っている。
社会派作品だが非常に観やすい良作
予告編観て面白そうだったのと、非常に評価が高かったので鑑賞しました。ストーリーに関する事前知識はほとんどありません。
結論ですが、予告編で感じた社会派で難しそうなイメージとは裏腹に、意外にも難解なシーンなどは少なく、しっかり内容が嚙み砕かれた分かりやすい内容になっていたと思います。だからといって内容が薄くなっているわけではなく、しっかり密度が濃くて見どころも多い。「ベネディクト・カンバーバッチが敵役を演じる」と公開前のニュースになっているのを観ましたが、あんまり「敵」って感じじゃなかったですね。鑑賞前はジョディ・フォスターとベネディクト・カンバーバッチの戦いになるかと思っていましたが、実際はジョディ&ベネディクト VS アメリカ政府やCIA っていう構図でしたね。「『フォードVSフェラーリ』なのにフェラーリが敵じゃないじゃん」ってのと同じ印象。
・・・・・・・・・
モーリタニア出身のモハメドゥ(タハール・ラヒム)は、アメリカ同時多発テロのリクルーターの容疑をかけられて拘束されてしまう。証拠が何一つない状態で起訴をされることもなく、拷問と虐待が横行する過酷な環境であるキューバのグアンタナモ収容所に収容されていた。この拘束を不当であるとするアメリカの人権派弁護士のナンシー・ホランダー(ジョディ・フォスター)とテリー・ダンカン(シャイリーン・ウッドリー)が彼の弁護人として調査に乗り出す。時を同じくして軍の弁護士であるスチュアート・カウチ中佐(ベネディクト・カンバーバッチ)は、上層部からの指示でモハメドゥを死刑にするための起訴の準備を始めるのだった。
・・・・・・・・・
アメリカってテロに対する憎しみや警戒心が日本人とは比べ物にならないくらいに大きいと思っています。私が最近観た『パトリオット・デイ』っていう映画も2013年に実際に発生した爆破テロをモチーフにした映画でしたけど、テロに対する憎しみの籠った描写がめちゃくちゃ多かったんですよ。だからこそ、史上最悪のテロ事件であるアメリカ同時多発テロに対して「一刻も早く首謀者を特定して電気椅子送りにしてやる」と思ってしまうアメリカ政府やアメリカ国民の心情は理解できますが、ここまで来てしまうと集団ヒステリーというかセイラム魔女裁判というか。ただ、当時は一刻も早く犯人を見つけることこそが正義であって、手段はどうでも良かったんでしょう。同時多発テロから20年が経過し、ビンラディンが死去から10年が経過し、情勢が安定した今になって振り返っているからこそ、「あの時は異常だった」と感じられるんだと思います。
この恐ろしい物語が実話に基づいているというのが驚きです。
映画のラストに実際のモハメドゥやナンシーについて描かれていることで「この話は実話だったんだ」ということが明確になっています。先述の『パトリオット・デイ』も同じような演出していました。色んな方のレビューを見ると『パトリオット・デイ』のラストの当事者へのインタビューシーンは結構不評だったように感じますが、本作のレビューを見る限りはあんまり批判的な人は見受けられませんね。同じようなシーンに見えるんですけど何でここまで評価が違うんだろう。不思議です。
映画的に素晴らしい演出があちこちに見られ、特に最後にテロップで裁判に勝利した後のモハメドゥとナンシーについて淡々と説明される演出は痺れました。裁判に勝って大喜びしているモハメドゥの映像が突然ブラックアウトしたと思ったらテロップで「勝訴後も7年間拘束され続けた」という説明がなされる。私の後ろの席で鑑賞していた女性が「えっ!?」って素で声を出してしまうくらいには唐突かつショッキングな演出ですね。素晴らしかった。
難しい内容ではありますが、かなり分かりやすく描写されている映画ですので、事前知識が無くても内容を理解して楽しむことができる映画だと思いましたね。また、「大きな事件や災害が起こると世論が過激化する」というのは東日本大震災や現在のコロナ情勢で我々日本人も痛感していることですので、まるで自分事のようにこの映画を観ることができました。
多くの人に観てほしい素晴らしい映画です。オススメです!!!
素晴らしい映画、、、
悪名高く恐しいグアンタナモ刑務所での衝撃的な長期不当勾留、虐待的尋問が冷徹に描かれています。困難でもスジを通す人たちの闘いの話です。
まず感じたのは全編を通じて落ち着いたカメラワーク、発色。薄暗いシーンでも見せるものははっきり見え、うるさいシーンや小声でも役者さんのセリフが自然に全部ちゃんと聞こえます。なぜこう言った基本的なことが今の邦画ではほぼ出来ていないのか不思議ですが、本作では当然のように安心して観られます。
また、ほぼダブル主演といえるタハール・ラヒムもJ・フォスター共に手堅くうまいですし、暴力やセンセーショナルなシーンを過多にせず、底知れず重厚で冷たく硬いが同時にとても重層的なアメリカの軍と法を淡々と描写しつつも観客が退屈に感じる前に次のシーンに手早く繋いでいます。近年大活躍のカンバーバッチの大立ち回りに期待する向きには少々残念かもしれませんが、その彼の役柄も全体の”アメリカ的な物事・アメリカに生きる人”という流れに沿っています。
でも‥ やっぱりこういう映画は政治的になってしまうのですね。若干ですがそれを感じてから、シーンやストーリー展開の政治的性有無を脳内で一々確認して客観視に務めてしまったので(結局大して気にすべきほどでありませんでしたが)、今一つ物語に入り込めませんでした。映画よ、ごめん。
ただ偏見ついでに言うと、上映の劇場内も日々日本の社会・政治悪を憂いておられそうな深いイイ感じの中高年の方が多かったように見受け、終映後みなさん深刻な面持ちで席をたってました。
小ネタ的に面白かったのは、「暴行犯の弁護をしたら私もレイプ魔に見られるのか。殺人犯の弁護についたら私も人殺しか。普通はそう見られないのに、テロ容疑者の弁護をするとテロ支持者と言われてしまう。これはおかしい」のくだり。私もそんな風な見方をしてました、反省です。
エンドロールで流れる本人の笑顔、、、、
ノンフィクションとあってか、ストーリーに派手な演出等はなく淡々と進んでいく。寧ろ、アレ?思ったより穏やかな感じだな、と。
しかし後半からいきなりエグい尋問や暴行が明らかになっていき、あー、、あぁぁぁ、、、急に胸が抉られる。
最後、ご本人が笑顔で歌うシーンが一番胸を打った。
あれ程に人間を全否定する暴行を受けた者が、なぜ今あんなに笑顔でいられるのか。。。
彼らを許す、という法廷での彼の言葉が、見終わった後もずっと頭の中に残った。
人権は守られるべきだ。この映画見なくとも。
先ず、9.11同時多発テロは、紛れもなく、アメリカに対する侵略行為です。犯罪です。
では、この映画の主人公は、誰の為に、なんの為に、グアンタナモ収容所で、戦っていたのでしょう?
普通の冤罪事件とは違うと思った方が無難です。また、何を根拠に、アメリカ合衆国、アメリカ軍は、この主人公の有罪無罪にこだわったのでしょうか。
その間に、真相が闇に葬られてしまっただけのような気がします。
同じテロでも、独立闘争や解放闘争とは、全く違うと思うべきです。そういった大義名分が無く、何の為にアルカイダは戦死(?)したのでしょうか?この映画を見て、10年経っても何一つ変わっていないと思いました。
アルカイダやイスラム国って、アメリカ人に対してのヒール役者なのではと思いました。日本にとっては、朝鮮民主主義人民共和国がそれですね。
この映画、まるで、安っぽいプロレス興行を見ているようかなぁ。
法の支配
9.11テロに関係した容疑でキューバにあるグアンタナモ米軍基地内の施設に拘留されたモーリタニア人の実話。
米国は法令を遵守しながら現代の戦争を闘うことには長けていると思うが、国家が「法を適用しない」と決めたときに、組織としてここまでシステマティックに無法を遂行できるかを見て恐ろしくなった。そして弁護士や軍の法務官が違法性を訴えてもテロリスト、裏切り者と非難され、愛国心や復讐心、組織防衛が優先されること、それでも法の支配と法による正義の追求を信じる人々がいるということ(米国人だけでなく被告もそうだ)を主張しているのだなと感じた。
そのプロセスには時間と手間がかかり、時に救済が間に合わず苛立ちや絶望がつのるとしても、そう考えて行動することが社会をマシにすると信じたい。
2001年の9.11米国同時多発テロの後、ひとりのモーリタニア人が...
2001年の9.11米国同時多発テロの後、ひとりのモーリタニア人が米国により逮捕・拘禁された。
彼の名前はモハメドゥ・ウルド・スラヒ(タハール・ラヒム)。
同時多発テロの首謀者のひとりとして疑われたのであった。
2005年、弁護士のナンシー・ホランダー(ジョディ・フォスター)は、キューバのグアンタナモ米軍基地に拘禁されているモハメドゥの弁護を引き受けることになった。
一方、なんとしてもテロ首謀者を死刑としたい米国政府は、軍の司法官スチュアート・カウチ中佐(ベネディクト・カンバ―バッチ)に対して早く起訴に持ち込むよう指示するが、カウチ中佐は有罪となる決定的証拠を発見することができない・・・
といったところからはじまる物語で、米国映画十八番の事実に基づく告発映画。
同時多発テロの直後だから、イスラム社会に対する偏見は凄まじく、映画後半で描かれる拷問ともいえる取り調べは人道を逸している。
というわけで告発すべき内容は素晴らしいが、映画としては一本調子な感があって、それほど面白くない。
特に、ベネディクト・カンバ―バッチ扮するカウチ中佐の立ち位置が、『アラバマ物語』のグレゴリー・ペックのそれと変わらない、いかにも米国の良心風なのはいかがなものかしらん。
対して、ホランダーを演じたジョディ・フォスター、芯が通っているというかプロフェショナルというか、こちらもこちら。
まぁ観ているわたしとしては、モハメドゥの告白文が出てきた際に、「やっぱり、やってたんだ・・・」と逃げ出してしまうホランダーの助手(シェイリーン・ウッドリー)の心情がいちばん近かったかしらん。
黒塗り怖い。
ジョディフォスターとカンバーバッチは見ないといかんと思いました。実話だし。
どこの国も都合悪い事は「黒塗り」
それでもちゃんと司法が機能して開示要求通る所がアメリカの底力だ。
日本の与党は長くやり過ぎて自浄機能を失い腐敗の根が深い。
まあ安定を望み腐敗を許した僕らの責任な訳で、野党をきちんと育てられ無かったのは痛い。子供に置きかえるとわかりやすい、チャンスを与えられなかった親の責任だ。
9.11はヤラセ疑惑もあるけど、最新の話だと有名建築雑誌がセンタービルの崩壊シュミレーションで飛行機の衝突によるビル倒壊を証明した話が話題になってた。
まあ誰がやったのかは置いておいて、政府と民意によって「人権」がいとも簡単に無視される所が恐怖だ。
前時代的な拷問の許可を政府が出し自白を強要、人格崩壊させて罪を捏造したわけで、巨大な正義の為に無実の人が罪人にされて、、、そりゃ犯罪ですよ。
未だにアメリカ政府は拷問があった事を認めてないし、謝罪もないそうだが、日本の入管で起きたスリランカの女性殺人(と言っても良いと思う)事件を思い出した。
たぶん殺した感覚がないのでしょう、保護してた動物が「死んじゃった」位かな、、、それ保護じゃないし。
捕まった彼が何故弁護士に拷問があった事を伝えないのかとも思ったが、看守にバレたらまた同じ目に遭うから言えないよね。
ジュディら2人の弁護士もかなり酷い目にあってるんじゃないかと思うし、カンバーバッチの立場もきつい。
どちらもアメリカの裏切り者扱いだ。
最後の「私の国では"自由"と"許し"は同じ言葉だ」と言う台詞が重い。
理性的な法治国家のフリをした犯罪行為
国家がからんだ法廷ドラマはエゲツないものが多い。国家が「反政府」とみなした者に対してはなりふり構わず攻撃してくるから。しかもそういうときの国家(もしくは国家の手先となって動いている輩)は、理性的な法治国家のフリをしているからかなり厄介だ。
本作に登場するモハメドゥは政治犯ではないが、扱いが政治犯のようだった。9.11テロの実行犯を組織に勧誘したという容疑をかけられ、裁判も行われないまま収容所で尋問が繰り返される。彼への扱いの酷さがほんの15〜20年前の話だってところが恐ろしい。
でも、それよりも印象に残ったのが、テロの関係者を裁きたいというアメリカ人の思いの強さだ。もちろんテロの首謀者や関係者は裁かれて罪を償うべきとは思うが、誰でもいいってわけじゃない(劇中でもこう言っていた良心的な人もいたけど)。本作に登場した人たちは、とにかく怪しいやつは罰を与えるべき!みたいな論調だったことが一番怖かった。本当に誰でもいいから生贄をこしらえようとしていたんじゃないか。これってどの国でも似たようなことが起きれば同じような反応になってしまう可能性があるってことなのかもしれない。本当に怖い。
そんな当時の異様な雰囲気をうまく演出し、ドラマとしてきちんとエピソードを組み立てていたので、少し難しいテーマなのに飽きの来ない脚本だった。裁こうとする側、護ろうとする側、そして裁かれようとする側。それぞれ、自分の中の真実と良心を守ろうする姿勢と苦悩が描かれている。演じている役者も含めて素晴らしかった。
ちなみにモハメドゥが拘束されたのがブッシュ(息子)政権のときで、釈放の判決が出たのはオバマ政権のとき。でもその後さらに6年も拘束が続いて、トランプ政権になる前に釈放されたということか。共和党だろうが民主党だろうが大差ないってことがわかる。見せしめのために死刑になっていたかもしれない。本当に生きて母国に帰れてよかった。
※
作中で、人権のために戦ってる。性犯罪者を弁護しても人殺しを弁護しても、性犯罪者、殺人者とは言われないけど、テロリストを弁護するとテロリストだと言われる……それはなぜ?
憲法に※なんてついてないでしょ?
みたいにいうシーンがある。
あそこが全てだなぁ、と思いました。
事件が大きいほど、悲しみが深いほど、テロでなくても弁護士が付くと犯罪者の味方なのか!!という大きい声が上がる。
人権より守られるものはないけれど、誰かの人権を蔑ろにして多くの人権が守れるということもある、と思ってしまうこともあるかもしれない。でも、その蔑ろにされる[誰か]が自分じゃないとは限らないのです。生贄なんて誰でもいいんですからね。
冤罪なのか、そうではないのかなんて、本当は誰にも分からない。この映画の場合もそうですが。
許すと、自由は同じ言葉。どちらも大事ですが、どちらも難しいですね。
とても考えさせられる映画でした。
流石ジョディ・フォスター。
全37件中、1~20件目を表示