「白い牛は供物かと思ったら捕食者!」白い牛のバラッド so whatさんの映画レビュー(感想・評価)
白い牛は供物かと思ったら捕食者!
父。誰かをなぐって、相手が死亡。取り調べで嘘の自白を強要され、殺人罪で死刑に処せられます。日本であれば、殺意がなければ傷害致死罪のケース。処刑後に証人が証言を覆し、実は致命傷を与えたのは別人であったことが判明します。法も証拠も捜査もおざなり、そら冤罪が多発しますわ…。①傷害致死罪に死刑を適用する法体系②自白や証言に頼った検察の捜査③「疑わしきは罰せず」という裁判の原則が徹底されていない判決、以上の3点がこの冤罪事件の要因だと思います。「神の思し召しだ。しゃーない。賠償金払うし」で済ませようとするのは社会の未熟さの現れです。判事は判決を誤ったとは言え、法を犯した訳ではありませんし、冤罪の責任を判事個人に追及したところで仕方がない。でもこの映画は一人の判事にフォーカスしていきます。
元判事の男。誤った死刑判決に加担した責任を感じて判事を辞任。身分を隠し、死刑になった男の古い友達だったと嘘をついて未亡人に接近。貧乏に苦しむ彼女に大金を渡し、彼女がアパートを追い出されたら立派な家をあてがいます。元同僚が男を説得するシーン。「冤罪はお前の責任ではない。法の問題だ。職場復帰してくれ」筋が通っているのに、なぜか男は聞き入れません。「初めての死刑判決で冤罪だった…僕には刑事事件はムリだ…」この元判事、どこまでナイーブなのでしょうか。それとも、元は傲慢だった男が、冤罪事件のせいで変質したのでしょうか。理由はよく分かりませんが、彼は妻に逃げられ、息子には心を閉ざされています。
未亡人の女。夫が冤罪で死刑になったことが許せません。当然です。ですが、彼女の怒りは偽証した男ではなく、判事に向かいます。新聞広告で判事に謝罪を求め、さらに最高裁に訴えます。妻の怒りが判事に向かった理由、判事があそこまで責任を感じる理由、そこに共感できないので、この二人に感情移入できません。どんなに判事を責めたところで、どんなに判事が責任を感じたところで、冤罪がなくなるわけじゃないのに。事件で死んだ被害者の妻が女の元を訪れるシーン。「冤罪であることを知らなかった。私は偽証した真犯人を許してきた。あなたも私を許してくれ」泣きながら許しを請う女性に、彼女は許しを与えません。身分を偽り、自分に親切にしてくれた元判事にも許しを与えません。そもそも許しとはなんなのか。彼女が許しを与えない理由はなんなのか。ちょっと理解できませんでした。
彼女には耳の聞こえない小学生の娘がいます。死刑になった父のことを「仕事で遠くに行っている」と嘘を教えます。それを信じた娘は学校で先生や級友に「嘘つき」と非難されています。彼女は、なぜ自分が周囲から受け入れられないか、理解できないでしょう。家でソファに寝ころんで古い映画のビデオを見ている彼女の姿を見ていると、なんともやるせない気分になります。彼女は父が死んだ理由も、2度の引っ越しの理由も、謎のおっさんの正体も、世の中や世界で起こっている現実も、何も知らないままに育っていくのでしょう。果たしてそれがやさしさと言えるのか。真実を隠すことが親の愛情なのか。何気ない会話の中での母の一言「お母さんがお婆ちゃんになったら面倒見てくれないの?」娘は何も答えられずにうつむきます。このお母さん、俺から見たら毒親です…。娘の親権をめぐって義父と争うのも、果たして愛情からなのか…。もし娘の将来を真剣に考えているのなら、あのラストはあり得ませんが…。
かわいそうな未亡人と親切な元判事は、徐々に距離を縮めます。未亡人は手料理と看病で男を籠絡、男が弱ったところで、毒々しい赤い口紅を塗った女は男を捕食します。女と、何も知らない娘は街を離れ、流れていきます。
父は嘘の供述を強いられ死刑になり、母は嘘で誤魔化し、信じた娘も学校で知らずに嘘をつき、元判事は嘘を重ねて破滅する。みんな嘘をついている。嘘も方便とも言いますが、相手のことを思ってつく嘘が、実は相手をダメにする。真実を告げないという罪深さ。そんなことを考えさせる映画でした。間違った方向へ怒りを向け、誰にも許しを与えず、娘をスポイルし続け、親族にも心を開かず、孤立していく母親。彼女の心の闇を思うと空恐ろしい気分にさせられました。白い牛は供物かと思わせて実は捕食者、慈愛の象徴であるミルクで命を奪うあたり、この監督、なかなかの遣り手です。
しかし、本作が本国で上映禁止になるという風土や文化が変わらない限り、あの国では今後も冤罪で死刑に処せられる人が後を絶たないのではないでしょうか。