「 ミナの心理を推し量る映画」白い牛のバラッド はなもさんの映画レビュー(感想・評価)
ミナの心理を推し量る映画
自由にモノが言え無い国の人々は、色々なモノで置き換えたり暗示したりすると言う。冒頭 唐突に白い牛が登場するが 冤罪で死刑になった夫を表しているというが、私はイラン国民を示しているのではと思った。
未亡人のミナは 冤罪なのに夫を死刑にした裁判官からの謝罪を得ようと新聞広告まで出す。が、自分の子ビタに対しては パパの死をあえて 希望的な嘘をついて信じ込ませる。そのビタは聾唖なので 母親からしか情報が入らない。
聾唖者のビタはイランの国にあって「女性」というだけで声高にモノ言えぬ有様を表していると思った。
そんな二人に 夫の友達で、彼からお金を借りていたと言って身分を明かさずに近づくレザ。親切そうだが優柔不断で狡いレザはイランに於ける「男性」を体現しているのかと思った。
ミナとレザは、なんとなく親しくなっていく。無論 子どものビタも懐いていく。
ところが、兵役に行っていたレザの息子が突然亡くなってしまう。レザは、重油にまみれた海鳥のようにボロボロになってしまう。そんなレザを必死で看病するミナ。ミナは久しぶりに口紅をし、スカーフを外してレザを慰める。お互いを分かり合えたと思ったのかもしれない。が、しかし、レザは死刑判決を出した裁判官その人だったと知ってしまう。
最後の場面は分かりにくいが、私は、やはり「目には目を」の国の人だから 謝りもしなかった不誠実なレザに苦しみを与えたのだと思った。複雑なのだ、ミナは。
そして、そんなレザと共に歩めないと決断したのだと思った。いや、そういうイランという国ではダメなのだと表したかったのかもしれない。
今晩は
今作は、イランの司法制度、死刑制度の瑕疵に正面から取り組んだ作品だと思いました。幾つかの国では(例えば死刑が統計上一番多いと言われる国。実はもっと多い国が多数あります。)国から命じられた死刑を諾々として受け入れる文化。そして、女性が人権を認められていない多数の国。
そのような文化を持つ国に対して、大きな一石を投じた作品であると思いました。では、又。
はなもさん、コメントありがとうございます。
イランでは、アメリカの刺激的な映画の公開が少ないかもしれませんね。だから最近の猛スピード映画に追いついていないのではないでしょうか。
解釈の難しい映画でしたが、聾唖の娘がイラン女性の隠喩という見方には感心しました。