「ショーアップされていない教会内でのライブだからこそ、歌唱そのものの凄味が伝わる」アメイジング・グレイス アレサ・フランクリン 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)
ショーアップされていない教会内でのライブだからこそ、歌唱そのものの凄味が伝わる
アレサ・フランクリンの父親は著名な牧師で(本作にも登場する)、アレサは子供の頃から教会でゴスペルを歌っていたという。ソウル歌手としてデビューしてからはラブソングを含め幅広い内容の歌を歌って成功したが、ライブアルバム収録のために企画された1972年1月のこのセッションでは、ルーツに立ち返る狙いだろうか、ロサンゼルスの教会を会場に選び、選曲もほぼすべてゴスペル、つまり神とキリストを賛美する歌に統一された(例外的にキャロル・キングの「君の友だち」のカバーもあるが、歌詞の一部で「友(=私)」を「神」に置き換え、「君は呼ぶだけでいい、私(=神)はそこにいる」といった具合に歌っている)。
スポットライトもカラフルな照明も、華美な衣装もない。マイクも牧師が説教する講壇の上に置かれ、アレサは大半の曲を講壇の後ろに立って歌う(ピアノ弾き語りも数曲あり)。派手な演出がないぶん、このドキュメンタリー映画の観客は彼女の歌唱の力強さ、豊かな響き、魂のこもった歌の世界に直接向き合い、心を揺さぶられることになる。伴奏の録音状態も良好で、バスドラムやベースなどの低音もほどよく分離して聴こえる。
アレサの後ろに並ぶコーラス隊や、席の観客たちが思い思いのタイミングで高揚して立ち上がったり、踊ったりしているのも、いかにも自然発生的で生々しい。客席にはローリング・ストーンズのミック・ジャガーとチャーリー・ワッツもいる。そして、カメラをまわす若いシドニー・ポラック監督の姿も。
実はこの時、ポラック監督は音楽ドキュメンタリーの仕事が初めてで、別々に収録する映像と音声の素材を編集時に同期させるためのカチンコを入れ忘れてしまう。そのせいで、同期をとる試行錯誤をするも結局編集を断念し、数十年もお蔵入りになっていた。
ポラック監督は2008年に死去し、その少し前にプロデューサーのアラン・エリオットが未編集素材を買い取った。近年のデジタル技術により同期の問題が解決し、2011年までには本作が完成していた。だがアレサ本人が公開を望まず、2011年の劇場公開と2015年の映画祭での上映を、2度にわたり法的手段に訴えて阻止。そしてアレサの死後、遺族が上映を希望してようやく2018年に米国で公開された。
こうした経緯を知ると、素晴らしいパフォーマンスを鑑賞することができて嬉しく思う反面、本人が望まなかったものを死後に商業作品として公開することの道義的な微妙さにひっかかってしまう。「アメイジング・グレイス」を冠した映画が歌い手自身に祝福されなかったというのはなんとも皮肉ではないか。