ドライブ・マイ・カーのレビュー・感想・評価
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赤い車とカセットテープの哀愁交差点
当初、上映時間180分と聞いて、
いやー、どこからしら簡略化できるでしょと思っていた。
長尺でありながら全体的に派手な場面転換はない。
特に後半は「舞台の練習風景」と「車中」の絵が大半。
さらに演技も誰もが心の内に隠し持つ喪失感を表したいためか
岡田将生以外の登場人物達は皆淡々としている。というか淡々としすぎている。
これだけ書くと飽きそうな要素が多いのだが、3時間はあっという間だった。
他人に愛車を運転されることに対し
かなり嫌悪感を抱いていた主人公が中盤
「まるで乗っているかわからないくらい丁寧」とミサキの運転技術を称していたが
まるで私も助手席に乗っているような感じで。
最初この作品を「ワォ!」と思いながら見ていたのに、なんともいえない作品の空気感にいつの間にかすーーっとのまれていた。
だが一方で、長尺で簡略化してほしいどころかこんなに長尺でも全て回収しきれていない印象もうけた。カンヌで脚本賞をとったのは字幕で見たほうが入り込みやすいのではないかという考察をみて妙に納得。
事前知識がなくても楽しめたが、原作や劇中劇の戯曲の知識などを知っていればさらに楽しめたことだろう。
やっぱり西島さん好き
答えの出なかった『ノマドランド』、答えを出した『ドライブ・マイ・カー』
『ノマドランド』を観た時、夫の影を追い求めてどこまでも遊牧民の生活を続ける主人公の姿に、物凄い絶望感を覚えた記憶がある。
底無しの絶望。どんなに他の“遊牧民”達と交わろうが、絶対に埋められない、ぽっかりと空いた愛すべき者が居るべき場所の空席。
『ドライブ・マイ・カー』もよく似ている。主人公は夫の方だが、わだかまりを残したまま居なくなった妻の影を追い求め、仕事である筈の舞台の主役すら出来なくなってしまう。
ただ、この主人公が違うのは『ノマドランド』と違い、自分と同様に喪失感を知る人間達が近くに居てくれるという点。
特に無表情な運転手の“みさき”。
彼女が言っていた「周りの大人たちに嘘ばかり吐かれていた」の理由を知った時、ようやく主人公も抱えていた荷物を下ろす決心をする。
…非常に心地の良い映画でした。
同じ境遇だけど、そうと口に出せない大人達が、不器用に袖を擦り合わせに行く物語と言うか。
ところでこの映画、物語も素晴らしいですが、ドライブ好きにはたまらん映像描写で、まさに一粒で二度美味しい作品でありました。
星5でないのは、若干言い回しが苦手な場面があったという理由なだけで。
言葉、テキストをめぐる物語
村上春樹の短編集を基にした濱口竜介脚本・監督作品。俳優・演出家である主人公が、妻の不貞現場を目撃したまま、不意に妻を失ったあと、広島での演劇制作と、無愛想な送迎ドライバーとの交流によって、再生していく。
濱口作品は初見だが、作中、演者にチェーホフの「ワーニャ伯父さん」のテキストを、感情を入れずにゆっくりと読ませ、体に染み込ませていく手法は、監督自身の演出技法とのこと。
原作未読なので、どこまで創作要素を入れたのかわからないが、画面上に字幕を映す多言語演劇は興味深いし、韓国手話まで取り入れているのは秀逸。脚本家である妻が語る話、「ワーニャ伯父さん」の朗読テープを含め、言葉、テキストをめぐる物語と言える。言葉の意味ではなく、言葉そのもののやり取りが、互いの感情に作用するというか。言葉すらなく、手振りだけで感情を揺すぶるラストは象徴的。
主人公役の西島秀俊は素晴らしい。三浦透子と西島秀俊が並んで車のサンルーフから煙草を差し出すシーンがいい。難役の岡田将生も頑張っていた。あと光っていたのが、ユナとユンスの韓国人夫婦。妻役の霧島れいかには、もう少しミステリアスさがほしかった。
作品全体として、外国映画のような肌触りで、近いところでは、ジャームッシュの「パターソン」、イランのファルハディの諸作品を思い出した。
主な舞台となった広島と瀬戸内のロケーションも良い。ごみ処理施設のエピソードも。
あらためて原作を読んでから、また味わい直してみたい。
何事もなかったような夫と妻の関係はいかに
179分という長さを感じさせない映画だった。
妻の隠された行動に対し、夫は何事もなかったようにふるまう、また妻は人がうらやむような幸せな夫婦として愛情を注いでいるように見える。
本質的なことを語ることのない夫婦、それはどういうことを意味するのか。
劇中劇の台本読みのシーンは結構長く、多言語で行われるため、映画のストーリーとの関係がしっくりこなかった。これは私の理解力不足によることかもしれない。
西島秀俊の目線で進むので、岡田将生のみが知る妻がとてもキモとなる。
見終わって男女の関係を考えさせられた映画であった。
広島でのロケが多く、よく行く場所での撮影であったので、見慣れた風景だと映画がつくる創造の世界に入り込めないところもあった。
ビートルズの曲名をタイトルにしがち(RGっぽい村上春樹あるある)
妻が他の男と浮気している現場を目撃するってどんな気持ちなんだろう。怒り狂ってしまいそうだけど、関係が壊れるのを恐れてその場を離れて黙っている気持ちもなんとなくわかる。家福と妻の音の幸せな生活が描かれる冒頭。音が亡くなった後に、演じている西島秀俊の文字がスクリーンに現れて(それなりに時間は経っていた)ここで!?と思ってしまった。たしかにこれでは長くなるはずだと思ったが、その後広島での演劇の演出、妻の浮気相手?高槻とのやりとり、ドライバーのみさきとの関係、みさきの過去といろいろとてんこ盛り。なるほどそりゃ長くなる。
家福の妻への愛、みさきの母への思いが絡みあって、お互いの思いを語るようになる2人。この流れはよかったし、最後もどういうこと?と思いながら清々しい終わり方だったので印象は悪くない。原作は未読だけど、これ短編なのか?
妻の不貞に振り回されるって話は村上春樹っぽい。雰囲気は好きなんだよね。個人的には演劇のシーンが結構長くてつらかった。これがないと手話のシーンが活きてこないという理由もわかる。でも、もっとコンパクトにできたはず。
乗り越えられないものと向かい合うささやかな試み
ふむふむ
三浦透子の面構え。
以前とは違う
村上春樹の作品はいつも喪失の物語だ。少なくとも以前はそうだった。
最近はあの特徴的だった文体が変わってしまった気がして読めていないのだが、この作品を観ると今でもそうらしい。
ただ、以前は喪失を前に呆然と立ち尽くしてしまう、あるいはなんとか折り合いをつけてゆくようなところだったのが、どうやら先に進めるようになってきたようだ。
あの懐かしいサーブのルーフに掲げられる二本の煙草は、先に進んでゆくための、墓標に供えられた香のようなものだったのではないか。
そうした「再生」を思わせる終わり方に、以前はなかった希望を見出してしまう。が、これが映画によるものなのかを原作を読んで確認してみようかな…
しかし、なんぼなんでも、長い!
大人の映画
原作を読んでいたのでどう味付けされるのだろうと興味津々で鑑賞した。村上春樹の「女のいない男たち」の中の二つの話が上手く組み合わされ、さらに話が膨らんで素晴らしい作品になっていて驚いた。
いくつかオリジナルのディテイルが足されていたが説明くさくなく、自然にその意図がわかるし、心理描写が的確で見る者の気持ちを上手くリードしてくれた。ストーリーに破綻がなく、なるほどと驚いた。脚本賞を取ったのに納得。特にチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を持ってきたのが凄い。脱帽。
西島秀俊も上手いが、岡田将生が少しいやらしい若者をわざとらしくなく演じていて素晴らしい。三浦透子も存在感がある。多国籍で作る芝居の役者さん達も皆さん的確。
主人公もドライバーの若い女性も心の底にしまっていた澱を洗い出し、それでも生きていく姿が、舞台に戻った主人公、韓国で暮らしているドライバーの姿で表わされ、終わり方が秀逸だった。
凄い
「心」への敬意がない
村上春樹氏は多分、人の心を「わからないもの」として取り扱っており、特に短編では、その輪郭を丁寧に描くことで、読者に中身を想像させているのだと思います。
そこが面白い。
でもこの映画は、監督か脚本家かはわかりませんが、「女は男がわかってあげなくちゃいけない存在」といった古くて尊大な感覚で、人の心を「わかったつもり」になって作った映画に感じます。
もちろん、わかったつもりにならなければ映画にならないという事情もわかりはしますが、キャストの演技がうまいだけに語りすぎ、説明しすぎに感じてしまう。
そしてその説明がひどく頓珍漢に感じる。
村上春樹の世界観の表面だけを真似ているため、中身との齟齬が余計に気になってしまいました。
村上春樹原作でなければ我慢できたのかもしれませんが……。
この監督とは相性が悪いなと思いました。
騙されたと思って・・・
とにかく言葉が多いのにくどくはなく、でも言葉は作品の中ではとても重...
この長尺でも消化しきれない、膨大な要素が詰め込まれた作品世界の濃度に圧倒される一作。
同名の村上春樹の短編を濱口竜介監督が映像化。三時間という昨今の日本映画としてはかなりの長尺ですが、それでも収まりきらないほどの膨大な要素が詰め込まれており、鑑賞中はほとんど時間が気にならないほどでした。主人公の家福が広島に行くきっかけとなった出来事など、いくつかの場面を除くと大きな起伏がない状況が物語の大半を占めるにも関わらず、このテンションの保ち方はすごい。それだけでなく、いくつかの場面ではまるで劇中の人物が観客に語りかけているような、あるいは観客が劇の中に入ったような感覚に陥ることがしばしばありました。これは劇中劇の素晴らしさもありますが、俳優達の演技の凄まじいまでの完成度ゆえであることは間違いないでしょう。
冒頭の一幕、そして劇中劇の内容から明らかなことは、本作が「ことばを巡る物語」であるということです。ある者は言葉の意味を過剰に深掘りし、ある者は発した途端消えてしまう言葉を何とかつなぎ止めようと奮闘し、ある者は言葉を発することを恐れて押し黙っています。「ことばに囚われた人々」を描いている、と言い換えることもできそうです。
このことを非常に良く表現している(と思えた)のは、家福と渡利が訪れるある場所です。本筋とはあまり関係なさそうに見える「そこ」では、日常にまんべんなく行き渡っているけどある時点で「見えなく」させられたものを、もう一度可視化することができるのです。この当たり前すぎて見えなくなってしまったものの存在を今一度意識するようになる、という過程は、本作全体の流れを凝縮しており、実際後半の展開はまさにこの場面が示した通りの展開となります。
劇中劇と共に物語が進行するという手法は、濱口監督の代表作の一つ、『ハッピーアワー』(2015)でも用いられているとのこと。本作は村上春樹の作品を底本にしつつ、濱口作品として生まれ変わらせるという、(良い意味での)換骨奪胎となっています。
パンフレットもまた作品同様情報密度が濃くて、読み応えがあります。なんと広島の観光案内としても使える!
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