「ロボットは人間の友達になれるか?」ロン 僕のポンコツ・ボット SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
ロボットは人間の友達になれるか?
面白かった。
現代特有の問題提起がある。
BボットはスマホとSNSをモチーフにしているのだろう。
他人の評価を気にしすぎて自分の本当の気持ちが分からなくなっていく病理や、人間関係だけがその人の価値であるかのように錯覚してしまうこと、友人を作れなければ問題だと言いすぎる社会のおかしさをうまく表現している。
①主人公は、みんなが使っている便利な量産品を自分だけがもっていない。
②中古品や故障品を手に入れる(もしくは偶然のトラブルによって機能が一部失われる)
③故障が原因による特別な欠陥や能力が見つかる
④メーカーが故障品を回収に来るが、主人公は抵抗する
このパターンのストーリーって、すごくよく見る気がするし、ありきたりだとすら思うのだけど、いざ同じストーリーにはまる作品を考えてみると、思いいたらない。ありきたりだと思うのは錯覚なのだろうか?
「電影少女(ビデオガール)」「ちょびっツ」「スクラップ三太夫」は①〜④のストーリーに近いと思うが、このパターンの物語の起源はもっと古いはずだ(と直感的に感じる)。
ドラえもんは、ジャンク品という設定だが、いわゆる「片倉設定」である上、物語上ジャンク品という設定が活かされているわけでもない(ドラえもんの能力はジャンク品であることと関係ない)。
ロボット、というしばりを無くして、似たパターンの物語を探してみると、「ドラゴンボール」の悟空、「寄生獣」のミギーは、本来は人類の敵になるべき存在が、偶然によるアクシデントにより人類の味方になる、という共通の生い立ちを持っていることに気づく。このパターンのヒーローの起源は、もしかして「仮面ライダー」か?
まあ、ジャンク品にしろ、ヒーローにしろ、①〜④のパターンの物語の面白さには普遍性があると思う。その理由は、「人間らしさ」とは、「不完全であること」という哲学ではないだろうか。
主人公のように、誰しも劣等感や不完全性に苦しみ、悩んでいる。しかし、不完全であるからこそ、成長しようと努力してあがく。その成長に対する意欲であるとか、成長の予測不可能性こそが、人間の人間たる所以なのではないか。
しかし、この映画はずいぶん思い切った主張をするものだ、と思った。Bボットは単なる道具として企業に完璧に制御されている限り、子供達の本当の友達になることはできない、Bボットは自律的に判断でき、企業の思惑とは切り離されて「自由に判断」できるようになって、本当の友達になれる、という…。
現実の企業だったら、絶対に自社でコントロールできない製品の存在を許すことはありえないだろう。
自由意志を持つロボットやコンピューターを恐ろしい脅威とみなすか、善良な友人とみなすか問題。アメリカではどちらかというと脅威とみなすことが多かったと思う(2001年のHALの影響?)。日本では友人とみなすことが多かった(アトムやドラえもんの影響?)。
この映画の世界観はすごく日本的だと思う。ロボットは本来善良でイノセントな存在で、それを使う人間が善良か邪悪かが本当の問題なんだ、という(=アトムの世界観)。
だんだんアメリカのロボット観、AI観も変化してきてるのかな、と思った。