劇場公開日 2021年10月29日

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「少女型AIが「他人の心を歌う」ことで問題を解決していく、特異な設定のミュージカル×青春×SF。」アイの歌声を聴かせて じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0少女型AIが「他人の心を歌う」ことで問題を解決していく、特異な設定のミュージカル×青春×SF。

2022年1月23日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

ようやく観てきました。
大変良質な「青春+SF+ミュージカル」アニメであり、観に行った甲斐はあったかと。

もともと、「青春+SF」というのは、吉浦監督の追求してきたテーマであり、初期の代表作『イブの時間』もAIテーマだったと聞く。そこに「歌」を足したうえで、『時かけ』以来定型となっている「高校青春SFもの」のテイストを強めたのが本作、という感じか。

歌の部分に関しては、当方オジサンなもので、だいぶくすぐったい感じはあったけど、とてもよかったと思う。
最近も高校生が学校でいきなり歌い出す、ちょっとこそばゆいようなアニメ映画を観たっけと思って記憶をたぐってみたら、『心が叫びたがってるんだ。』でした(笑)。
あれも、キャラが歌い出したら最初は周りがおいおい大丈夫かと不審がる、「ミュージカルのお約束」に対する日本人の抵抗を和らげるための演出が成されてたな。
まあ最近は、『ラブライブ』や『マクロスF』でもみんな路上でいきなり歌い出すし、『竜とそばかすの姫』みたいな純正ミュージカルも出てきたし、アニメキャラが急に歌い出しても気にならない「耐性」は日本人のあいだでも大分ついてきていると思うけど。

ただ、今回のミュージカル要素に特異な要素があるとすれば、それはアイが「他人の心」を歌にして表現するという点だろう。
なぜなら通常、歌は常に「自分の心情」を歌うものだからだ。
『ここさけ』にしても、緘黙の少女のなかから「歌があふれ出してくる」という設定だったかと記憶する。歌は、本人の心がいっぱいになって、それがメロディに乗って流れ出してくるもの。
これは古くオペラの時代から続く「歌」の大原則だ。

ところが、この映画の「歌」はちがう。
アイは自分の心情を歌うのではない。
近くにいる人の心情を歌うのだ。
ちょうど、家庭用AIが、その場にあったBGMを選択するように。
天気や、ご主人様の気分や、その日のシチュに合わせて。

この「外付け」の歌は、まわりの人間に「気づき」の効果をもたらす。
鬱屈し、思い悩み、立ち止まっていた少年少女は、アイに自分の「内面」を歌ってもらうことで、それを確信し、一歩踏み出すことができる。
ミュージカルシーンの前と後で、人間関係や心の持ちようが劇的な変化を遂げるのだ。
喧嘩していたゴッちゃんとアヤは仲直りし、負け続きのサンダーは勝ち方を身につけ、トウマはずっと胸に秘めていた慕情を、サトミは悔恨の情を、それぞれ相手にさらけだす。
彼らは「アイに促されて/影響されて」歌い出すことはあるが、あくまでその端緒となるのは、アイの「他人の心情に添って歌う」歌唱である。
その意味で、本作の若者たちは、自ら七転八倒して傷つけあいながら真実に目覚めていく能動的な存在というよりは、「人(もっぱらサトミ)を幸せにしたいAIの力で」再び結び付けられていく受動的な存在ともいえる。
悪い言い方をすれば、かなり「甘やかされた」キャラクターたちだ。
でも、日本人なら、それをちっとも変に思わないはずだ。
なぜなら、日本人はみんな、『ドラえもん』を見て大きくなってきたからだ。

そう、これは岡田磨里風味に味付けされた、『ドラえもん』なのだ。
僕は途中から、そう思いながら観ていた。

このAIはポンコツだという触れ込みで、物語は始まる。
実際、コミュ障だし、考えていることも得体が知れない。
でも、このAIは、魔法のように「その場の人間関係のストレスを解消する歌を歌える」。
その点だけは、つねに間違わない。
人間にも見抜けない真の心を歌であぶり出す。
これは、SF設定としては、実は本来の設定と大きく齟齬のある「チート機能」だと思う。
会話すらままならないAIが、純粋であるがゆえに、人の隠した思いを見破り、それに見合った歌を紡ぐというのは、そう説明されればそうかなと反応するしかないけど、結局のところ究極のご都合主義だからだ。それに「サトミ」の幸せだけを考えているAIが、その「周辺の人物」から順番に救っていくというのは、ぎりぎりロジックが通っているようで、やはり無理筋の展開だろう。

とはいえ実際に観ると、本作のAI「アイ」は、そういう矛盾というかご都合的な部分を気にさせないところがある。その理由としてはやはり、「外見が少女だ」という要素が大きく影響しているのではないか(笑)。
AIに「直観」は高度すぎる概念だが、無垢な少女に『直観』は兼ね備わっているのが当たり前の絶対の力だ。『フルーツバスケット』の本田透しかり。『悪役令嬢』のカタリナしかり。ちょっと頭は弱くても、苦しんでいる人の何かを見抜いて救済する力が「少女」には間違いなくある。
ポンコツAIが人の心を読むことはありそうにないが、そのAIが少女の姿を獲得した時点で、複雑な男女のわだかまりや過去の因縁をも超越する「歌」を歌ってもおかしくないキャラに変貌する。
ちゃんと、監督やスタッフは、そこをわかったうえで、アイというキャラクターを創造し、あえてアイに「解決屋」としてのチート能力を付与しているのだ。
それに先にも述べたとおり、日本人は『ドラえもん』で、未来のロボットに頼って他力本願で物事を解決する手順に慣れ親しんでいる。「人の幸せを願う」AIが関係者の問題を解決してくれることを、奇妙に思わないように「道徳的に訓練されている」と言い換えてもいい。
だから、僕たちはアイの存在を変に思わない。
むしろ、自然な展開として享受できる。
これは、ある意味、幸せなことだ。

― ― ― ―
『アイの歌声を聴かせて』は、幸せな映画である。
出だしはみんな暗い過去や、現在進行形のわだかまりを抱えてスタートするが、映画が終わるころにはすべて解消される。
敵はわかりやすく悪いヤツらで、彼ら相手にレジスタンスを展開しても、あまり良心の呵責に苦しまないで済む。
アイはみんなに愛され、アイはみんなを愛し、アイの負に傾かないけなげな楽天主義は、周囲にも同じポジティブな影響を与えていく。
観客は、「アイの(ポンコツとしての)正体がバレるのではないか」というサスペンスには付き合わされるが、「アイが裏切る」とか「アイのせいで最悪の事態になる」といったマイナス要素は「あえて考えないで楽しく観る」ように作り手に巧みに誘導される。

これは裏を返せば、ちょっと怖い話でもある。
ここで描かれるAI「アイ」は、長くSFの世界で「危険視」され、「淘汰」されてきた「危ないAI」の「典型」ですらあるからだ。

アイは、人型ロボットにウイルスのように感染して、人格を乗っ取ることができる。
アイは、まわりのコンピュータにもハッキングし、自在に動かし、従わせられる。
アイは、自動育成されたスタンドアローンのAIで、人間の管理を受け付けない。
アイは、「サトミを幸せにする」という盲目的・妄信的な課題にいちずに邁進する。
アイは、その目的のためなら、非合法な行為であっても、全く臆することなく行う。
アイは、危機に陥ったら、人間型の義体を捨ててネットで生きていくことができる。
アイは、ラストにおいて●●に到達し、物理的攻撃を受け得ない存在に進化した。

いままで、多くのSF作品において、こういう状態に進化したAIは、「一歩間違えば人間を滅ぼしかねない存在」として、目の仇にされ、さまざまな形で葬られてきたはずだ。それこそ『メトロポリス』の昔から、『2001年宇宙の旅』のHAL、最近のアニメ『Vivy -Fluorite Eye's Song-』に至るまで、「人に尽くす」ことを目的に作られたAIは、必ず進化の過程で暴走し、人類に破滅をもたらす存在へとなり果てるものだった(そういや『Vivy -Fluorite Eye's Song-』も「歌でみんなを幸せにすること」を使命にもつAIだったな。本作とかなり被る目的意識でつくられたアニメだ) 。

ところが。
本作において、アイは「希望」の象徴だ。
この物語は、全力でアイを肯定し、アイに救われた若者たちもアイを肯定する。
そしておそらく、観客も全力で、アイと仲間たちを応援するだろう。
そして最後には、幸せなAIと人間の共存可能な未来が提示される。
それがまさに、吉浦監督の「描きたかったこと」だからだ。

でも、一瞬立ち止まって考えてみたい。
この映画で描かれたアイの特徴と機能と進化の結果に、ほんとうに脅威はないのか。
しょうじき本作のアイと、いままで駆逐されてきた「暴走したAI」に、そう大きな差はないのではないか。
アイは、ほんとうに人間に害を与えないのか?
サトミを幸せにするためなら、回りに悪い影響を与えても平気なのではないか?
これだけ驚異的なスペックを有する人工知能を●●に逃がしてほんとうによかったのか?
アイを捕獲しようとした星間エレクトロニクスのほうに、実は「理」があるのではないか?

僕は、吉浦監督がこの疑念に対してあまり明確な答えを用意せず、ポジティブに、楽天的に、「信じられるよ」「だってアイは良い子じゃないか」で済ませている感じがどうしてもして、ちょっと怖い。
アイが良い子に描かれていたから、アイに高校生たちがみんな救われたから、星間の社員が悪いヤツに描かれていたから、「アイは危険なAIではない」と断ずるのは、危機管理の思考としては最悪の部類に属すると僕は思う。
僕が本作に十分感動したし、楽しんだにも拘わらず、少し「もやっ」とした気持ちで劇場を出たのは、そういう思いもあってのことだ。

まあ何にせよ、アイの正体がわかった瞬間に、映画のアバンから何から、すべてのシーンがきれいに塗り替えられる『ユージュアル・サスペクツ』にも似た高揚感や、そのあと続く怒濤の(Keyゲー風)回想シーン、アイが「歌うAI」に進化した理由が最初から呈示されている点など、本作の作劇の巧妙さを指摘しだしたら、それこそ枚挙にいとまがない。
逆にいえば、今回は「本当は危険かもしれないAI」を、「まったく危険でないかのように描く」ことに成功し、観客全員をアイの味方につけてしまった吉浦監督の「話術」の勝利なんだろうね。
実際僕も上映中は、ほとんど何も考えずに面白く観られたわけですから。

― ― ― ―
最後に一点だけ、あまり誰もが指摘しないだろう点に触れておく。
それは、大河内一楼の存在だ。

吉浦康裕監督の映画は、これまで実は『サカサマのパテマ』しか観たことがないけど(たしか新宿の現アニメシアターで封切りで観た)、それと比べても格段に「受け止めやすい」「設定上の粗の少ない」「観客サーヴィスに富んだ」映画になっていて、監督の成熟ぶりはもちろんのこと、シナリオチェッカーとして入った大河内一楼の果たした役割の大きさを思い知らされた。
大河内は『∀ガンダム』から『プラネテス』『コードギアス』と、SF設定に関してはまさに海千山千のツワモノだし、『エウレカ』の第26話(家出レントンの帰還回)のような感情に訴える「泣かせ」シナリオでも抜群の才能を発揮する脚本家であり、吉浦作品のサポートに入るには最適の人選だったのではないかと思う。
大河内はパンフレットで「物語のクリエイティブは吉浦監督発のもので、僕は技術を提供した」と述懐している。「ただ、全体に要素が多くて複雑だったので、僕のほうでいったん整理した」「僕はお客さんに伝わりやすいようにとか、感情線がはっきりするようにとか、描く順番や要素を整える役割でした」云々。
これらは、まさに『サカサマのパテマ』では大いにひっかかりを残した部分で、『アイの歌声を聴かせて』では劇的に改善が成されていた部分に他ならない。
個人制作で長篇アニメ映画を積み重ねて来た吉浦監督にとって、商業アニメの世界で生き抜いてきた大河内の「設定の穴をつぶし」「わかりやすくして」「観客の感情移入を意のままに操る」職人的スキルは大いに参考になったのではないか。だからこそ、単なるスクリプトチェッカーではなく、共同脚本へと格上げして、丁重に迎え入れたのではないか。
僕は、本作に大河内が果たした役割は、みんなが考えているよりはるかに大きいと思う。

じゃい