ブータン 山の教室のレビュー・感想・評価
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夢から醒めたその後は・・
1 教職の意欲を失い、春から冬までの期間、懲罰的に僻地の学校に派遣された若い教師の姿と現地の人々との交流を描いた人間ドラマ。
2 主人公が派遣されたのは、麓まで徒歩で数日を要する富士山よりも高地の村。通信はおろかライフラインさえない環境、学校には黒板やまともな教材もない。着いたその日のうちに「無理です。帰ります。」と言う彼。それでも踏みとどまったのは、子供たちの学びたいというまっすぐな気持ちやヘタレの新任教師にも敬意を払う村人の姿。日々を過ごすうちに、教育者として成長していく。と同時に人としても心が整っていく。娯楽のない現地で主人公の心を捉えたものが地元の民謡。澄み渡る景色の中で浪々と歌われる。この歌が後々彼の人生を左右することになる。
3 監督は、のっけから主人公の置かれた立場をざっくりと示したあと現地への行程をテンポ良く描く。現地の場面では、雄大な風景と悠然たる民謡、そして子供たちの自然な動きが心地よい。季節の移り変わりの描写にメリハリが無かったのは残念。終局に向かっては、さらりと流しながら場面転換し、エンドロールにする演出はお見事。主人公とともに心が空を行く。
4 俳優では、次第に成長していく主人公を演じた男優が好演。村長は、おそらく地元の人だと思われるが、気骨と信念のある役どころで印象を残す。歌い手の娘は田舎暮らしであっても土臭くはなく魅力的だった。クラス委員の子の笑顔とその眼差しは人を引き付ける力がある。
学べる場所はどこにでも転がっていた
先生を育てるのは
この映画の前に観たのが「SNS少女達の20日間」。
エログロGGI共に反吐吐きたくなってしまったので、心の浄化の為に観ようと思ったのがこの映画。
ほんというと、もっとベタなお涙頂戴的な感動モノを期待していました。
でもブータンでだって首都に住む若い子はやっぱり今時のチャラ男になるんだね。
僻地ってのがさすがブータン!日本じゃ考えられないようなど僻地!歩いてテントで寝泊まりして何日もかかるとか考えられる?
でも確かに心が洗われるような景色。映画館の中の空気まで綺麗になったような気がしました。
そして何より学級委員長の瞳と笑顔。やられました。
ウゲンみたいなやる気のないチャラ男を村人総出で出迎えて、村長も子供達も皆常に敬意を払って接してくれる。
ウゲン成長したね。敬意と自然がウゲンを育てたの。
昔は日本でも「先生の言うことはちゃんと守りなさい。」って親達も言ってたみたいだけど、今は「ろくな教員じゃない」とか言って、親も先生を信じてないし子供の前もってでもバカにしたりする。
そりゃあひどい教員のひどい行いがニュースを賑わせてるけど、若い先生は子供と親が敬意を持って接してたらそれに応えようとしてくれるんじゃないかなぁ。
賛否あるだろうけど、ラストはウゲンが村でまた子供達を教えてるってシーンを見たかったなぁ。
先生は未来に触れることが出来る
ペムザム
幸せとは
【ブータン、世界、学校、先生、算数、世界】
これは世界一幸福度が高いと言われるブータンの山奥の更に山奥の村の学校のお話だ。
だが、首都ティンプーの多くの若者は、自分達の国を退屈だと思い、片道切符で外国を目指している者もいることに結構驚いた。
とどのつまり、インターネットは世界を狭くしたが、実は多様性を貧富など単純な尺度で矮小化させて、実は多様性を阻害することもあるのではないのかと思ったりする。
僕は、ウゲンは、再びペムザムに会うことになるのではないかと思った。
そういえば、算数は英語でやっているのを見て、日本も同様にした方が良いんじゃないかと思ったりもした。
数式は、グローバルな共通言語みたいなものだ。
だから、インターナショナルな言語の英語で勉強すると、英語の実践的な学習にも繋がるような気がするのだ。
インターネットで安易に世界と繋がるより、地道でも、算数を通して世界と繋がる方が、健全な気がするのは、僕だけだろうか。
日本の教師にとっては、生徒の受験が最大のテーマのひとつだと思うが、村長が言うように、先生は未来に触れることが出来る…というか、子供達が未来に触れる触媒のようであって欲しいと思う。
頑張れ、日本の先生!
美しい景色にため息
いい涙、出ました。
主人公・ウゲンが訪れたのは、筋肉質の牛みたいなヤクの恵みの下に人々の生活が営まれるパラレルワールドだった。電気は、安定的に「安定供給されない」。一口にブータンといっても、いわゆる都市部と地方(=超僻地)とではまたとんでもなく「格差がある」のであった。もちろん両者の幸せの尺度は異なる。
一方、ブータンの人たちは全国的に自分たちが世界で一番幸せな国として知られていることを意識しているらしい。教員養成機関のスタッフは、ダメダメ教員の卵であるウゲンに、国の隅っこまで幸せにするようにと僻地への赴任をミッション。赴任先の僻地の町長は、「世界一幸せな国の若者が外国に移住しようとしている」事実を知りため息。
印象的だった人々の気質。
・他の人の決断は否定せずに尊重すること(ウゲンのおばあちゃんも、村の人たちも)。
・自分の夢や態度もはっきり言うこと。私は歌手になる、私はずっとここにいる、、、
競争なんていう概念も存在しなさそうだ。意地悪な人も基本的にいなそうだけど、離婚はあるみたいだ。
村の人たちは、算数とか英語を教えてくれる「先生=どこにでもいそうな若者・ウゲン」を惜しみなくリスペクトしてくれていたけど、歌のうまさ、生きる知恵、親孝行、屈強な体力、自然への畏敬の念、どれをとっても村の人たちは「先生」以上だった。
まあ、ウゲンが奏でたアコースティックギターは人をつなぐ万能楽器だと再認識した。電源不要だし運送しやすいし。
生活と伝説に基づいた、これぞ民謡、と言う歌声が本当の主役だったのかも。誰も、人よりも上手に歌おうなんてしていないのに、とても感動的なのだ。手も握らない若者二人の後ろ姿のツーショットは白眉。山と空の下、歌を教える・教わるだけの関係、眩しかった。
そして正直言って何よりも見る者を幸せにしてくれたのは賢く健気な学級委員ペンザムちゃんの仕草と言葉、だった。ありがとう。
ヤクとヤク飼い
教員として5年間のお礼奉公のうち1年を残した主人公が、ブータン一の僻地と呼ばれる人口56人の村に赴任する話。
首都ティンプーからバスで2日のガサの町から、山道を歩き6日でようやく辿り着いた標高4800mのルナナ村で、貴賓の様なもてなしを受けるも自分には無理と一度は断った主人公。
ドマはビンロウ的なものですかね?
のどかな風景とのどかで慎ましい暮らしに触れて、主人公の意識が変わって行く姿は単純明快なストーリーながら、何てことのないやり取りに微笑ましさや温かさを感じ、観ていて思わず笑顔になってしまったり、思わず涙してしまいそうになったり。
村長は素晴らしい人格者だし、ペムザムの表情は堪らないし、みんな素晴らしい人達だね。
幸せの定義、幸せの形はその人次第。
人生に於いて沢山の選択肢があることは幸せなことだけど、世界一幸せな国ブータンにおいての幸せは沢山のことを知らないから言えるのかも知れない。
なんて小難しいことも少し頭を過ったけれど、少なくともルナナ村の人達が不幸せにはみえることは無かったし、主人公もそれを感じているのが伝わってきた。
ドマを噛むと体が暖まるんだ
しみじみと、この素朴な映画に心も暖かくなりました。
帰宅して、興奮冷めやらぬままレビュー
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「ふるさとの山に向かひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」啄木
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東京の岩波ホールと時を同じうしての上映。ここ長野県の小さな街でこんなに早くの上映が叶ったのは、支配人の熱意が通じてのこと。快挙!
(だいたい新作映画のフイルムが流れてくるのは半年遅れで、レンタル店にDVDが並んでしまうのが一緒なので、悔し涙)。
わが街 長野県塩尻市は、ブータンの首都ティンプーと人口は一緒。10万人です。
毎朝・毎夕、1年365日、荘厳な北アルプスの連山を、すぐ左手上空に見上げながら暮らす街。
だから山の民の映画は、どうしても僕らは親しく感じてしまいますね。
上映まえ、「この映画は若い監督が、変わりゆくふるさとブータンに心を痛めて撮ったのだ」という館主の解説をもらいました。
「先生は未来に触れることができる」
「先生を尊敬しなさい」。
地元の都会では落ちこぼれだったインターン教師のウゲンを、まるで天からの使者のように迎える全村民。
学校教育を重んじる辺境の村。そこには電気も電話もインターネットも無いのです。
登山道だけが唯一の交通路。徒歩6日の距離で 現代文明から隔絶されたルナナの村は、これはいったい“幸福”なのだろうか?それとも“不幸”なのだろうか?
・・鑑賞者の胸にはこの思いが一様に去来したはずです。
ブータン人ウゲン君のヨレヨレのTシャツには
《幸福度世界一国民》を恥じて揶揄するロゴが。
でも、かけがえのないヤク(=飼い主にとっては親友のヤク)を、村民のため、そして(ここ重要=)ウゲンのための“取って置きの歓迎”に提供する、そんな身を裂かれる運命も耐えて享受をする山の民は、ウゲンの離任の気持ちをも又 静かに受容するんですね。(※注)
無知ゆえの愚かな幸福感とはどこか違う、悟りと気高さを感じました。
(※注)ブータンでは殺生は禁じられています。魚でさえインドからの輸入とのこと。
だからウゲンは自分のために供された食材が何であるか分からないし、法を犯したもてなしを村長たちは穏やかに目配せをして、木の椀に盛り付けたわけです。
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押し寄せる西洋“文明”に、ネイティブが破壊されていく映画を観ると、僕が必ず思い出す映画が「ミッション」(1986.英)です、
⇒アマゾンのジャングルの奥地で、裸族の子供たちに“完璧なラテン語の聖歌”を歌わせるシーン。本国から視察にきたカトリックの聖職者は、そのバーバリアンに施された訓練と布教の成果にいたく満足して、密林の民に祝福を与える ―というシーンでした。
あれほどグロテスクな侵略の描写は、他に例をみないと思っています。=アンダーライン
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山や海で隔絶されて「井の中の蛙」であることの好運って、もしかしたらあったんじゃないかな?
日本人が英語が上手に喋れないこととか、外国に行けないとことか、島国根性であることとか・・おおよそ感化されにくい国民性であること、これって見下されるべきこととは必ずしも言えないのではないかな?
グローバル化で、固有の文化はますます混淆し、情報は膨大にして急流。これについて行けない者は「情弱」と蔑まれ、最早幸福やら不幸やらを考える暇さえ消え去って・・
我々は得られるものと失うものが拮抗する、誕生と喪失のはざまの時代にあるのだということを思い巡らしながら、終演後 夜の帰途につきました。
ブータンのジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク王は、つい先ごろ自ら、絶対王政から立憲王政へと国の体制を大きく転換させました。王様ご自身が「国民の成長と幸福の何たるか」をきっと苦悩し模索しておられるのだなぁと感じたニュースです。
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学校ものでオススメは
「すれ違いのダイヤリーズ」
「小さな園の大きな奇跡」
「あの子を探して」など。
子供の命を大切に守りたいと思わされます。
鑑賞後、そんなこんなで、いろいろ考え込んでもしまったけれど「ブータン、山の教室」、このチラシを壁に貼って明日からも元気に生きようと思う。
学級委員のぺムザムちゃんの笑顔、最高なんです、
村長の歌も、いまだ胸にこだまするんです。
バッファローは山を見上げヤクの帰りを待つ
山奥の村で先生になる話
大自然の美しさと村民の素朴な暮らし、映像に残すだけでも価値のある作品でした。
電気は無いし娯楽も無い、紙すら貴重な僻地で主人公の目を通して観客に伝わる自然の素晴らしさと心に響く歌声。
文明の進歩は人の心を豊かにしたのか?
便利になればなるほど、思いやりや助け合いの精神は薄れていき、個人主義や自己責任が蔓延してくる。
人間は一人で生きていくことが出来ないのに、現代の生き方は他人とのつながりを希薄にしているように感じる。
映画の舞台となるルナナ村は都会に比べればとても不便だが、村全体が一つの家族のように暖かい。
なんでこんなにも優しいのか、これが本来の人間の姿なのか分からないけれど、とっても行ってみたくなる村だった。
子どもたちの笑顔も、大人たちのおおらかさも、のんびりとした時間も全てがうらやましい。
自然の恵みに感謝して季節とともに生活を変える、なんて理想的なんだと思ってしまうけれど、現地の人たちはその生活から抜け出したいんだよね。
未来に触れるには教育が必要なのだと私も主人公もまったく気づいてなかった。
当たり前に教育を受けられる環境がどんなにありがたく尊いか忘れていた。
本当の幸せと豊かさって何だろう?
山を下りる事、山に残ることの先に待ってるのは何?
人々に受け継がれる歌だけが答えを知っているのかも知れない。
将来への不安とか現実への不満とかの感情を忘れさせてくれるわけじゃないけれど、ちょっとだけ心を軽くしてくれるような映画でした。
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劇中セリフより
「なんで君たちは泥がついてない?」
いくら最新鋭の靴だろうと、避けなければ泥は着く。
大事なのは靴ではなくて道筋と歩き方。
こころが洗われるなー。
こういう精神性に触れることが出来てとても幸せだ
「ブータンは世界一幸福な国と言われているそうだが、先生のような人が幸せを求めて外国に出て行く」というルナナ村の村長の言葉が本作品のテーマそのものである。
村長は村以外の場所の様子を知っているが、子供たちは知らない。自動車さえ見たことがないのだ。その分、子供たちは幸福である。知らなければ比較をしないから、自分たちの生活に満足する。村長の悲しそうな顔に対して、子供たちはみんな幸せそうな顔をしている。学級委員のペムザムの可愛さは山間の寒村にあってこそだ。
実は公式サイトを見ていなかったので、主人公が女性教師だと勝手に想像していた。しかし可愛いペムザムと村一番の歌姫であるセデュが登場するからには、主人公は当然男性でなければならない。首都ティンプーに帰りたい気持ちを翻意させるにはそれなりの動機が必要なのだ。
「先生を大切にしなさい、先生は未来に触れることができる人だ」と教わったと、子供たちは言う。未来に触れるという言葉の意味は最後まで説明されない。教師が触れるのは教室と教材と、それに子供たちである。未来に触れるというのは子供たちに触れるということで、つまり未来とは子供たちのことなのだろう。
「寒いときはドマを噛むといい」と祖母は言う。「鳥のように歌って」とセデュは言う。標高5000mを越す峠で素手のまま神に祈る村人。礼儀正しく欲の少ない村だが、文明の情報に少しずつ蝕まれていく。子供たちの知らないCarがブータンの幸福をみじん切りにするのだ。
物欲には限りがなく、入ってくる情報がさらなる物欲を生み出す。仏教もキリスト教も物欲を捨てるように説いた。物欲を充足させることに幸福はないからだ。ギターで歌うことは楽しいが、セデュが歌うヤクに捧げる歌に伴奏はいらない。山間に響き渡るセデュの歌声はコンサートホールのオーケストラの演奏などと比べても意味がない。唯一無二の美しい歌声である。一期一会の邂逅なのだ。
どのシーンを見ても、今生の別れが待っていると思えば泣けてくる。移ろいゆく村の季節も、ヤクの世話をする村人たちも、村長の渋い歌声も、一期一会だ。寒くて不便で貧しい村だが、そこには気高い精神性があった。情報に溺れて足るを知らず、物欲に塗れて常に不幸な自分を省みれば、まさに汗顔の至りである。ルナナ村は標高も高いが、それ以上に精神性の高さが日本の遥か上にある。こういう精神性に触れることが出来てとても幸せだ。本作品を高く評価したい。
緊急事態宣言中だが、座席を制限しても映画を上映する岩波ホールの姿勢は立派だと思う。不要不急の外出は控えろと政府や東京都は言うが、何を以て不要不急とするのかの具体例は示さない。それに対して岩波ホールは、映画は不要不急ではない、人生に必要なのだとして、断固たる姿勢で上映を続けている。天晴れだと思う。
美しいブータンに行きたくなった
歌手に憧れてる若い教師のウゲンは、ヒマラヤ山脈の標高4800m、ブータンで最も僻地にあるルナナ村の学校へ赴任命令を受ける。首都に住んでたウゲンは車で人口448人のガサまで行き、それからは徒歩で1週間以上かけて人口56人のルナナ村に到着。そこには、先生の到着を心待ちにする村人と子どもたちがいた。ウゲンは電気もトイレットペーパーもない土地での生活に戸惑いつつ、村の人々や子供達と過ごすうちに自分も教師として成長していくという話。
ルナナ村までのトレッキングは登山でテントと食糧を担いで山を縦走してる気持ちになった。
ヤクのフン集めはモンゴルで同様の事を経験した事が有るので、そこは一緒なんだなと思った。
幸福度世界一のブータンから、本当の幸せとは何かを問いかける作品だと思う。
大変だろうけど、機会が有ったら美しいルナナ村を訪ねてみたいと思った。
学級委員のペムザムが純真で賢くてメッチャ可愛かった。
子供たちとの触れ合いが愛おしかった
これはブータン🇧🇹という国、その文化、そしてそこで暮らす人々を知ることができる逸品。静かに感動した。
主人公のウゲンは首都ティンプーに住みミュージシャンを夢見る教師未満。彼のチャラい生活を描く序盤は思っていたテイストとまったく違うので観る映画を間違えたかと思った。
ブータンで最も僻地にあるルナナ村の学校へ赴任するよう言い渡されたウゲン。
ここからが神がかっていた。
見るものすべてに感動してしまう。
ルナナへの厳しい道のり。こんな狭い国で何故に10日もかかるのか不思議に思ったが、ここはヒマラヤ山脈だった。日本にはない高低差を知った。
へこたれないウゲン。案外根性ある。
そしてルナナ。都会の人間にとっては何にもない場所。携帯も繋がらない。着いて直ぐに帰ると言ったウゲンだったが。
ルナナの子供たちに魅かれた。
ルナナを離れることができなかった。
そこに残り、教師として、人間として成長した。
子供たちとの触れ合いが愛おしかったなぁ。
観る自分も満たされていった。
子供たちをたちを撮っているだけで十分だった。
色々な世界を見せてくれる映画ってホント素敵。
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