劇場公開日 2021年11月27日

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「20230722 原一男監督特集初日の水俣曼荼羅@シネマテーク」水俣曼荼羅 fuhgetsuさんの映画レビュー(感想・評価)

4.520230722 原一男監督特集初日の水俣曼荼羅@シネマテーク

2023年7月22日
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鑑賞方法:映画館

水俣曼荼羅。
ドキュメンタリー映画である。
それも、原一男監督の。
そんじょそこらの映画なはずはない、小津安二郎に匹敵する本物の作品である。
しかしだ。
ものには限度ってもんがある。
6時間耐久レースの、普通の映画3本分という超大作の長尺作品。
朝うちを出て、今池まで行き、開始1時間前に着いて、オープンまで並んで当日券の整理券待ちして、昼前の11時から映画がはじまると、2時間おきに途中2回の休憩を挟んでも、見終わると夕方の17時だよ。
休憩といっても長蛇となるトイレで終わり。
スマホ見たり、食べてる暇もない。
人って、あまりに忙しいと、食べるかトイレかの2択の欲望しかなくなるってことがわかった。

それでも観たかったのは、公開当時に見逃してるからというのもある。
まず、タイミング的にコロナ禍でありながら、2021年10月にシネコンで洋画の『MINAMATA』を観た。
海外ではまったく知られてなかった水俣病を、初めて世界に知らしめた点で大きな価値があった。
ちょうどその流れで、翌年の1月にミニシアターで『水俣曼荼羅』を観るつもりが、そのときの上映スケジュールではこちらの都合がつかず泣く泣くあきらめたという苦い思い出がある。
次の上映チャンスなどあるかないかもわからず、ない可能性の方が高いし、あったとしてもやはり半日以上の丸一日そのために予定を空けるタイミングは永久に来ないだろうとあきらめてたもんだから。
名古屋シネマテークの最後の企画、原一男監督特集の初日にふさわしい記念すべき一日にしたかった。
だから長時間の上映中ぜったい寝ないように前の晩は早く寝て、仕事ならあり得ないくらい朝ちゃんと起きて、行く前から気合い入れて、わたしとしては本気モードの命がけで観に行ったのだった。
それくらいたいに映画好きを自認したいし、映画人生のピークだった学生時代に通いはじめたこのシネマテークが、最後の企画を一週間上映して平日金曜には閉館してしまうから、わたしにとって本当に最後のシネマテークとなるかもしれない一日なのだ。
それくらい気合いが入って当たり前で、何のことはない。

学生時代、その頃はまだ映画2本立てが当たり前で、寝ちゃうこともあるけど4〜5時間は平気だったし、何なら宿代わりに朝まで同じ映画を2度見3度見できたし。
映画祭ブームで朝から晩まで観てたこともあるけどそのときはプログラムの中から好きな時間だけ観ただけだから、最初っから最後までちゃんと連続6時間観たのは、やっぱり人生初だ。
それを覚悟はしてたものの、退屈せず、身体が痛くなったり、寝てしまったり、面白くなく飽きてしまって観るのも苦痛になることなく。
なんと最後の最後まで観る価値ありの連続で、あっという間に終わった。
時計も見てないから、6時間なんてたいしたことないじゃんとなった。
それが自分でも驚き。
それくらい中身の濃い、密度も高く、完成度の高い、いい作品だったという証拠です。

完成度って、それドキュメンタリーじゃないじゃんと思われるかもしれないけど、何も作らず、ただ撮影するだけがドキュメンタリーだと思ったら大間違い。
作る側の意図に合わせるやらせは作為があるけど、原一男監督の作るという部分は、より真実の姿を浮き彫りにするためのきっかけ作りとしての誘導にすぎない。
批判する人はそこを勘違いしてるっていっつも思う。
わたしもドキュメンタリーにはやってはいけない加工と、どうしてもやらなければならない加工の仕方があると思ってる。
何にもしないのがドキュメンタリーなら、防犯カメラに映り込んだ意図も作為も何もない、ただの素っ気ない映像のみとなってしまう。
どんなに素のままを撮っても、カットしてつないで編集すればテレビだろうと映画だろうと作者の意図する都合のいい映像としていかようにも仕上げることができる。
ドキュメンタリーといえどテレビ局や商業映画の場合、完成のゴールが決まった状態で撮影がスタートし、そうなるような絵のみ撮るか、そうではなかった場合でもカットして編集してそうなるようなウルトラCのテクニックで真逆なことをしてるのに、あたかも真実であるかのように信じ込ませてる映像がほとんどだ。
そうじゃない。
もうそういう胡散臭い、有名で素晴らしい映画には辟易してる。

わたしが原一男監督を大好きなのは、不器用そうに見えて粘り強い繊細な感性を持ち合わせてるから。
一切の妥協なく、被写体へのリスペクトがあり、完成後の上映がどうなるか、観客が観るに耐え得るかまで意識して、慎重かつ丁寧に撮影してることまで伝わってくる。
例えばカメラの回ってるときだけ笑顔でも、家に帰れば暗い顔してるかもしれない。
それを撮るには、撮影する側の人格が重要で、相手に信頼させ、心を開いて、すべてを許してもらえるところまで介入しないと。
たとえ偶然にもいい絵が撮れたとしてもそれはシーンのひとつであり、そこから先の突っ込んだ展開に持っていかなけりゃ誰でも撮れる。
シーンをつなぎ合わせ、この水俣での真実を伝えたいと思う大きなスパンのシーケンスとして描くなら、それが撮れるまで1年でも2年でも待ち、あるとき導かれるように訪れる瞬間を見逃さず、ようやくそのシーンを相手から引き出すことに成功する。
そんなこんなで完成するまで監督人生のほとんどを費やし、20年という歳月をかけてたったの6時間に納めたのだから天才としか言えず、回したカメラの時間からして6時間じゃ短すぎるって話。

だから、あえて映画レビューとしての感想をわたしは書かない。
っていうか、書けない。
もちろん水俣病が題材の映画で、水俣病患者や被害者、寄り添う医者とその家族、さらにはその支援者、また敵対するチッソと国や県や司法という腐りきった政治色の強い巨悪の根源と、いろんな立場の人物が描写されつつ、そうした長い年月の出来事の時間軸を説明するため、度重なる裁判の判決による一喜一憂の浮き沈みをしつつも、結果的な不当判決や勝訴が重要ではないことがわかってくる。
写してるのは人の心だ。
人の哀感という描写がなければ、こうした公害ドキュメンタリーほど見てて息苦しく、失礼ながらも退屈すぎてつまらないものは無い。
それはいつもわたしたちが火事の対岸にいて、裁判で判決のニュースを見ることしかなく、実感も何も到底当事者の心など計り知れないからだ。
しかし、原一男監督はそれを見事に相手側からさらけ出させ、そこまで見せてもええんかいって批判や猛反発くらいそうなところまで掘り下げる。
きれい事で誤魔化さず、それっくらいの無茶しないと、本当にあるべき姿など見えてこない。
実はドキュメンタリー映画で泣いたのは、今回が初めてなんだ。
登場人物の魂まで透けて見えるくらい、あの笑顔、あの苦しみ、人生の深み、その迫力、どん底の中で、泥の中から咲く蓮の花のように美しい、やっぱり人間ってすごいなと思う。

この映画のレビューに、水俣病に関するいろんな視点論点で語る人も多いかと思いますが、わたしはそこを一切端折ります。
水俣病に関してはいろんな資料があるし、そんなことは調べればいくらでも知ることができます。
ただ美しいお涙ちょうだいの感動ドラマで誤魔化すことなく、普段は裏側に隠してる、心の奥にしまい込んでしまった当の本人ですら意識してない心の奥底にある大切なものを、一途な監督の心を開かせる術を持ってして、スクリーンに映し出してくれるのだ。
これは被写体となった水俣病患者にとっても、映画として実名で顔をさらけ出してまで撮影してもらった甲斐があるってもんだと思う。
迷惑だったら拒否したり拒絶できるのに、どんどん撮影は進んでいくのだから、撮る側、撮られる側の信頼関係がよほど深いということまで伝わってくる。
いや、この水俣病という公害の根がそれだけ深く複雑で難解だからこそ、原一男監督はなんとかしてそこにメスを入れたんだと思う。
だから、タイトルが曼荼羅。
水俣という混沌とした宇宙に漂うわたしたちに、宇宙の秩序として曼荼羅の世界を描いてくれたような気がします。
上映後のトークでは、嬉しい知らせとして、水俣曼荼羅パート2の計画まで話してくれました。
それでも、水俣問題は切り取られたひとつでなくすべてとつながってて、今の日本の状況そのものだし、家族という単位の変化、すべての犠牲が子供たちに向けられてる中で、ドキュメンタリー映画の質もどんどん低下し、今座ってるこの映画館もまさに閉館する直前であり、絶望の淵に落とされながらも希望ともいえる猛烈な批判と新たな野望をきくことができた。
ね、長い長いといっても、めちゃめちゃ充実した時間を監督と共に時空を共有できた、ありがたい一日となったのでした。

fuhgetsu