「通訳=“橋渡しをする人”という主人公の設定の巧みさ」アイダよ、何処へ? 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)
通訳=“橋渡しをする人”という主人公の設定の巧みさ
日本が阪神大震災とオウム地下鉄サリン事件で揺れた1995年、欧州ボスニア・ヘルツェゴビナの町スレブレニツァでは、紛争のさなかに8000人もの罪なき住民が虐殺される事件が起きた。本作はこの“スレブレニツァの虐殺”を題材にしているが、国連平和維持軍の通訳として働くようになった現地の女性、アイダという架空の人物を主人公に据えることで、事件のいきさつを的確に示しつつ観客に当事者のような感覚をもたらすことに成功している。
夫と2人の息子がいるアイダは、紛争の前はこの町で教師をしていた。映画冒頭、事件の前段階の状況が駆け足で語られるが、予備知識がないと若干わかりにくいかもしれない。
紛争ではセルビア人、クロアチア人、そしてムスリムのボシュニャク人の3勢力が争っており、スレブレニツァはボシュニャク人勢力の拠点だった。この町で1992年にムスリム武装勢力がセルビア人約1200人を殺害する事件が起き、セルビア側はスレブレニツァを包囲。1993年に国連がスレブレニツァを「安全地帯」に指定して攻撃を禁じ、平和維持軍の基地も設ける。しかしセルビア勢力が国連側の通告を無視して町に侵攻したことで、住民2万5000人が保護を求めて国連基地に押し寄せる…と、ここまでが前段階。
アイダは国連軍のリーダーらに付き添い、両勢力の交渉の場や、軍が住民らに状況を説明する場でボスニア語と英語を通訳する。物資に限りのある基地には数百人ほどの住民しか保護されないが、アイダは夫をセルビア側との交渉役にすることで、息子2人もどうにか基地の中に入れることができた。観客はアイダの視点を通じてことの推移を見守ることになり、国連側の弱腰な姿勢や、セルビア側の威圧的な言動、そして無力な家族や住民たちの不安を目の当たりにする。アイダは異なる立場の人々の橋渡しとして献身的に働きながら、大切な家族を守ろうとするのだが…。
昨日まで隣人同士だった人々が、民族や宗教やイデオロギーを理由に互いを攻撃し殺しあう内戦や紛争の不条理さは、主に2つの場面で印象的に描かれている。最初は、ゲート近くにいたアイダが、外の若いセルビア兵から「先生」と呼びかけられる場面。昔の教え子がにこやかに、さりげなく家族の居所を尋ねてくるのが地味に怖い。もうひとつは、終戦後何年もたってからアイダが教師に復職し、生徒たちの学芸会の舞台を見ているラスト。客席では、敵部隊の隊長だった男も父親の顔でほほえむ。このラストをどう受け止めるかは、観客ひとりひとりに委ねられている。そこにはきっと、いつまでも終わらない民族や宗教の対立から生まれる悲劇について、自分がその立場ならどう感じるか、どう行動するかを考えてほしいという作り手の願いが込められているのだろう。