モロッコ、彼女たちの朝のレビュー・感想・評価
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エネルギッシュなモロッコの街角が映される。しかし、物語は静かな家の...
エネルギッシュなモロッコの街角が映される。しかし、物語は静かな家の中で進行していく。未婚の妊娠女性、サミアを助けたシングルマザー、アブラとその娘。三人の連帯を軸に、生活を通して尊厳を取り戻していこうとする女性の姿を美しい映像で捉えている。
この映画の生活感が抜群に良い。本当にこういう生活があるのだろうという、強い説得力がある。パン屋を営むアブラをサミアが手伝うようになる。キッチンで交わされる豊かなやり取り。家庭生活の中に、これだけの豊かなドラマがあるのだとこの映画は教えてくれる。
未婚の母がタブーの文化の中でサミアは、社会に認められない存在だ。そんな彼女を夫が死んで社会との関わりを極力なくそうとしているかのように暮らすシングルマザーが抱きとめる。社会に弾かれた者たちの連帯の美しさは、社会の残酷さと表裏一体。彼女たちが自由になれる日はいつのことだろうか。
抑制の効いた端正な女性映画
まず目を引くのは、衣装やインテリアの配色、自然光、そして構図を繊細にコントロールした滋味豊かな映像で、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」やミレーの「糸を紡ぐ少女」といったバロック期の絵画を想起させるショットがたびたび登場する。モロッコ出身の女性で、短編の監督や脚本家、女優としてキャリアを築き、これが長編デビュー作となるマルヤム・トゥザニ監督は、フェルメールなどの絵画に影響を受けたと公言しているが、ポーランド出身の撮影監督ヴィルジニー・スルデージュ(「代表作「シリアにて」)の貢献も大きい。
男女格差が制度化されたイスラム圏のモロッコでは、妊娠中絶が法律で認められておらず、未婚の母は忌み嫌われる存在だという。トゥザニ監督は、かつて両親が面識のない未婚の妊婦を迎え入れて世話をした実体験をもとに、ストーリーを紡ぎあげた。
説明過多になりがちな邦画に慣れていると、あるいは情報が足りないと感じるかもしれない。サミアが未婚の母になった経緯は明かされない。彼女を受け入れるアブラが夫を失った事情は後半に彼女の口から語られるが、葬儀にまつわる話などは、イスラム社会の知識がないと単に理不尽な扱いのように聞こえそうだ。それでも敢えて説明を抑えているのは、観客のリテラシーを信じているからだろう。
望まない妊娠と出産という点で辻村深月原作・河瀬直美監督の「朝が来る」に、イスラム社会の男女格差がテーマになっている点でトルコの村の5人姉妹を描いた「裸足の季節」に通じる。これらの映画が好きな人なら、きっと本作も気に入るはずだ。
じわりと感じる温もりと希望
小さく、ささやかな映画ではあるけれど、焼き立てのパンみたいな温もりがある。最初に出会った時は心が擦り切れたみたいに険しい顔をしていたヒロインたち。しかし少しずつ絆が深まるにつれて柔和さを取り戻していく。その変化していく表情や関係性を見ているだけで、二人の歩んできた道のりが自ずと伝わってくるかのようだ。ここにはアラブ世界特有の文化や慣習があり、彼女たちは「女性はこうすべきもの」という抑圧に苦しんでいる。だが本作はそういった過去、あるいは現在を描きつつも、そこから先の未来へつなぐ灯火を感じさせる。小麦粉を混ぜて一つ一つ形を整えて焼き上げていくパンは希望の糧。そこから無数の笑顔が生まれる。一人娘も屈託のない表情でその場を明るくする。日に日に膨らみを増すお腹にも大きな未来が育っている。この小さな家、小さなパン屋から何かが始まっていく。ささやかだけれど力強い明日への希望がここには宿っている気がした。
モロッコ
モロッコが舞台で、行き場のない妊婦とパン屋を営む女性の事実に基づく話です。
パン屋の女性は『青いカフタンの仕立て屋』に出てた女優さんで『灼熱の魂』にも出てます。
この人、演技うまい!!
自分は男ですが、子供を産む女性の気持ち、母親の愛、いろいろ考えさせられます…
多くの人に観てほしい作品です。
途中すこしダレたかな?って感じしますが面白いし観る価値あります。
迷ったら観てみて下さい。
モロッコ料理が美味しそうで食べたくなります(笑)
3.5と4の間で、4寄りの厳しめ3.5です。
「女三人」の美しい一本
お互いに苦労をしている者同士、サミアとアブラとの、パンづくりを通じた心の交流がとても温かいのですが…。
しかし、二人の間を、まるで「潤滑油」のように媒介しているワルダ(アブラの一人娘)の存在も小さくはありません。
邦題の「彼女たち」は、サミアとアブラを指すのかも知れませんが、評論子は、ワルダも含まれると解釈しました。「女三人の物語」というべきでしょう。本作は。
意図的にか、原色を排して、画面が絵画的に美しいことも、特筆に値すると思います。
観終わって、良い映画であったとも思います。
女の権利は限られてる
アブラは確かにエネルギッシュでタフに生きており、娘に勉強をうるさく言っているのも生きて行く術として身につけさせようとしていたのか。一方サミアはよく分からない、その状況でどうしたいのだ?一回出た後の関係性の逆転にはビックリしたが。最後もどうなったのかは分からないままで終わったが、女性が生きて行く、いや人が生きていくという事は大変だけど守る者がいると強く生きていける、かな?
まず面白かったのは見慣れないモロッコの街や日常生活。ルジザやムスン...
まず面白かったのは見慣れないモロッコの街や日常生活。ルジザやムスンメンなどのパンケーキやお祭りのお菓子も初めてみるものばかりで興味津々。
そして物語を紡いでいくアブラとサミア、二人の女性がとても魅力的。言葉は少なくても、意志の強さと優しさがしっかりと伝わってきて、二人の不思議な世界に引き込まれていった。
終盤は切ないが、温かい気持ちの残る素敵な映画だった。
臨月のサミアが職を探してカサブランカの街を彷徨う。当然見つかるわ...
臨月のサミアが職を探してカサブランカの街を彷徨う。当然見つかるわけもなく野宿しようとするが、見かねたパン屋を営むアブラが招き入れる。一晩のつもりが結局は出産するまで住まわせることに。サミアもパンを焼いたりして働く。
パン作りを手伝うことを許したり、家事を手伝わせたりするアブラだけれど、心を開くことはないのだが、娘はサミアと仲良くなり、母と娘2人の生活の中に新たな空気が生まれてくる。そのことに戸惑うアブラだが、だんだんとアブラの表情も変わってくる。日々の生活に追われ、忙しく過ごしていた毎日にアブラ自身も笑顔が増え、お化粧をしたり,若いサミアによって自分が女であることを思い出したように。
イスラムでの女性の立場、アブラのダンナさんのお葬式の話やサミアが語る未婚の子供に対する世間の見方など、差別を考えさせられる内容。
朝起きたら一緒にセンターに行こうとアブラはサミアに話していたのに、サミアは1人で出て行ってしまった。そこのサミアの心の内がもう少し描かれていればよかった。
それぞれ前に進まなきゃ
未婚の母への視線が厳しいモロッコ社会で、サミアに手を差し伸べるアブラ。雰囲気といい、アブラはどこか赤毛のアンのマリラを思い出させるキャラクター。頑なで、心を閉ざしてる。
麺のように伸ばして作る手間のかかるパンを、サミアが器用に作る。アブラとサミアが作って売るパンが珍しく新鮮で、モロッコの風俗をうかがえるのは楽しい。
でも、現実は重い。重いけど、それぞれ前に進んでいく。寄り添ったり笑顔をもらったり刺激をうけたりしながら。
異国の風俗が伝わってくる映画が好きなので楽しめました。楽しいばかりではないけれど。
モロッコに行きたくなる❗
訳あり妊婦が主役の、日本でもあるある話。僕は男なんで母性という感情は理解できないが、分からないなりに理解させてくれる作品。女性の心理的変化を絶妙に表現していたと思います。最後をもう少し工夫して欲しかった😒
本当の強さとは何か
未婚の妊婦サミア、未亡人で神経症気質のアブラ、そしてその娘。女性の社会的平等がないイスラム教のモロッコで相互扶助によって力強く生きている。妊娠中で仕事と居場所の無いサミアは寝る場所と仕事を得た。アブラはサミアによって心の緊張が解けて、神経症が改善していった。アブラの娘はサミアがあることで楽しい時間が増えた。自分の周りにいる人を見ていても思うが、男が女から学ぶべき大事な事は相互扶助の精神だとおもう。女性は困った時に助け合っている。男にもこの素質があればもっと平和な社会になるだろう。この映画は妊婦が出産するシーンも含まれている。ラストには未婚の妊婦が命にどう向き合うかという大きな問いが残されていた。
イスラム社会の問題点
臨月で大きなお腹のサミアはモロッコ・カサブランカの路地で仕事と寝る所を探していた。イスラム社会では未婚の母はタブーなため、勤めていた美容師の仕事と住居も失ってしまったため。ある日、小さなパン屋を経営してるアブラと出会い、彼女の家に泊めてもらえる事になった。アブラは夫を事故で亡くし、幼い娘を育てるために言い寄る男にも心を開かず黙々と働いていた。パン作りが得意なサミアはアブラの仕事を手伝い、出産し・・・という話。
妊娠した経緯はわからないが、冷たい対応の周りの人々にちょっと驚いた。サミアの明るさでアブラや娘が明るくなっていく様子が見所かな。
やはりイスラム社会では女性に対する扱いが酷いと思った。
サミア役のニスリン・エラディが美しかった。
僕の夜勤明けの朝。 そして「モロッコ、彼女たちの朝」
久しぶりの映画館。
塩尻市の「東座」に駆け込みました。
先日観た「髪結いの亭主」も舞台はモロッコ=カサブランカ辺りであったような?
カサブランカ(=白い家々の街)。アフリカとヨーロッパの交差点。
中東文化へのワクワクな期待感は、タイトルに流れるアラブ音楽で高まります♪
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極端にセリフの少ない映画なのですが、僕にとってはこの寡黙さが逆に画面への集中につながりました。
そしてそのインパクトの大きさはかなりのものだったのですね、
観終わっての一週間、なんだか雑音にかき消されるのがもったいなくて、テレビも映画も見るのを一切やめて、静かに作品の余韻に浸りました
(借りていた他映画のDVDも見るのをやめて返却したくらい)。
僕までちょっと無口になって、登場人物の表情や、心情や、あの二人の頭上に差していた朝な夕なの空の光に、ずっと心がとらわれていたのです。
レビューが長文になるのも、そういう訳。
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【①アブラのこと】
事情があるのですね・・
女ひとりでやりくりをする小さなパン屋。
頑張り屋さんです。でも警戒感丸出しの、ゴリゴリに硬い表情の女、アブラ。
ナイフとフォークを1㎜の誤差も許さずにならべ、起床時間やら娘ちゃんの学校の宿題と成績についてやら、毎日いちいち確認を取るのが彼女アブラの譲らないルーティン。
夫の不慮の死と葬儀のあとの
・身持ちを守る覚悟と、
・娘ちゃんを立派に育て上げる決意と、
・言い寄る男へのガードと・・
他者を寄せ付けないアブラの“防御姿勢”の城壁の厚さったらない。
それが変わるんだなぁ・・
『my favorite music』 のカセットテープを無理やりに聞かされてね~。
あのくだりに僕はハッとしましたよ、
“アブラの髪が、まるで朝露に濡れた蝶の羽のようにみるみるうちに艶やかに変わっていく素ん晴らしいシーン!”
サミアと掴み合って、妊婦の馬鹿力に組み敷かれて、
長かった長かった夜が明けて、あの時にアブラの喪が明けたのだと思いました。
【②サミアのこと】
大都会マラケシュに出てきて美容師見習いをしていた田舎娘=サミア。
サミアのような娘はどこにでもいる。
孕ませて逃げていく男もまたしかり。
寡婦は寡婦として、ふしだらな女はふしだらな女として、一生“黒い布”を被って生きるべきだという社会の因習もあるのかも知れない(=「あなたの名前で呼ばせて」に似て)。
アブラは寄る辺ない妊婦サミアの境遇に自分をどこか重ねている。
寝付けない。
窓から覗く。
追いかけて街中を探す。
やもたてもたまらず、救いの手を差し出したんだな。
二人の女が人生迷路のマラケシュの街で、ほんの短い時間だったけれど一緒に生きて、出来る限りの感謝のプレゼントをお互いに残した。
助けた者が逆に助けられた小さなお店。
僕は、出て行ったサミアの行く末を想うと心配でたまらない。
でも身重のサミアも、ふるさとの母親に会わせる顔がない自らの“不始末”へのつぐないを、アブラへの恩返しとして返したのだろうし、
パン生地をこねながら、これからの人生を考える大切な休息の時を、この貧しいパン屋で与えられたのだと思う。
アブラの店は、シェルターだったのだね。
空気読めない男たちが祭に浮かれる街で、ドラマは人知れず女たちの思い出に刻まれてゆく。
かくして生まれたアダムよ!
頼むぞ!君は夫なき女たちを=アブラたちをサミアたちを、必ずや守る男へと育ってくれ。
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【③娘ちゃん】
監督マリヤム・トゥザニは、彼女が幼かった頃の事件=未婚で身重の女性を招き入れた監督自身のお母さんのエピソードを映画にしたのだそうです。
つまり、劇中のあの娘ちゃんはかつての子供時代の監督自身というわけですね。
お姉さんのサミアが来てくれたことが嬉しくって仕方ないし、大きなお腹に触らせてもらった体験も映画でリアルな描写です。
実体験だったからです。
【僕の実家でも】
この筋書きに見事にそっくりな出来事がありました、
僕の母が=夜勤の看護助手のアルバイトをしていた=産院から、ある朝、若い産婦と、新生児と、4歳児+2歳児を連れて帰ったのです。
真夜中の産院で、暗い廊下で、居室に戻れず、新生児室にも行けず、このシングルマザーはうなだれて立っていたのだと。
これから先の生きるあてが無くて、暗い廊下にひとりで立っていたのだと。
父親が全員違ってね。
玄関にゴム草履が3つ。お母さんのゴム草履と小さいのが2つ。そして抱かれてやってきた赤ちゃん。
《アブラの店で生まれたサミアの赤ちゃんアダムは、その後どうなったのだろうかなぁ?》
何年も経ってからのこと、
見知らぬ中学生の男の子たちがサイクリングの途中に我が家に寄ってくれました
「おれ、昔この家に住んでいたことがあるんだぜ」と友人たちに屈託なく話すボーイ。
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塩尻市の映画館「東座」は、アブラのパン屋のような小さなお店。
女たちだけでやっているお店。
よりによった“いいパン”を仕入れて、僕ら観客を待っていてくれます。
ここは人生に疲れて駆け込むお客を迎える“シェルター”になってくれているかも。
いつもありがとう。
女支配人が切符を売り、妹さんが映写機を回します。
映画館を出て振り返ったら、小さなロビーで丸椅子に腰掛けたお母さんが僕を見送ってくれました。
なんかね、
サミアは、元気が出て、一念発起して、もしかしたらアダムを抱いてふるさとに帰った気がするよ。
パン、旨そー
女性の地位が低いイスラム社会の映画だが、時代背景はいつなのだろう。
携帯電話もなさそうだし、テレビのリモコンも古そうなので、1990年台前後なのかな。
結末は妻と自分は全然違った、色々な解釈があると思う。
一番、気になったのは恥ずかしながら、映画中に出てくるパン「ルジザ」
自分で作ろうと思い、クックパッドでレシピを調べた位、札幌では売っていないし、美味しそうだった。
#76 モロッコのパンが食べたくなった
日本にはほ全く情報がないモロッコの話なので、未婚の母の社会的立場とか、オーブンがない家用に共同の焼き窯があることとか、イスラム教の國でも意外に女性の露出度が高いこととか、色々知れて為になった。
特にパンの種類が多くて美味しそうで、めっちゃ食べてみたくなった。
日本では買えそうにないので自分で作ってみようっと。
パンの話だけでなく、女性の自立を描いた作品として観ても秀悦な作品。
TOHOシネマズ日本橋では1日一回しか上映されないから、三連休は連日満席でしたよ(座席がひとつ跳びの半分しかないせいもいるけど)。
もっと多くの映画館で上映して欲しいな。
もどかしい
困っている人への接し方ってとても難しい。
彼女の為なんておこがましい思いでいるのも違う、じゃあなんで手を差し伸べるのか?
そんな微妙な距離感をもどかしく感じながら、わずかな時間に起きる不思議な関係性に嬉しくなったり悲しくなったりした。
どんな現実をも受け入れる強さを目の当たりにし、そんな強くなくて良いのにと微妙な気持ちになる私は平和すぎるのだろうか。
じわじわーと来る
目は口ほどにものを言う、とよく言うが主人公アブラを演じた女優は、まさしくそれだった。
ことに映画冒頭、店前で野宿するサミアの様子がなんとなく気にかかるアブラは、サミアを一泊させるがその後 出て行ってと申し渡す。けれどサミアが出て行った後 自分のおこないは正しかったのか、留め置くべきだったのかと逡巡する様子は秀逸であった。ラ・ラトゥールのマグタラのマリアの絵を思い出した。まさしくあの時のアブラは、悩めるマリアそのものだった。その圧倒的な存在感、説明は一切無いのに心の細かな機微が手にとる様にわかった。
事故死した夫とちゃんとお別れしていないと感じているアブラは、いつも眉間に皺寄せ、笑う事すら忘れた様にあらゆる楽しみを封じ 娘にもやや厳しく生活している。
そんなアブラに サミアが哀愁あるアラブ音楽を流しながら「もっと優しくこねるのよ」と共にパン種をこねるシーンは艶かしく、アブラの心を解き放ち、その後のアブラに変化が生じ、自然に笑い、身なりにも気を使う。
そして映画の最後は、男の子を出産した後の、2日間のサミアの気持ちの変化とサミアの表情を丹念に描き、結末は観客に委ねている。
このモロッコ映画は、静謐だけど圧倒的な「生」だと感じた。大袈裟な事柄は無く、まるで藤沢周平の世界の 市井の人たちがモロッコに居たと思えた。
アラブ音楽は耳に心地よく、食べてみたいルジザ、行ってみたいモロッコ。
珠玉の映画だと思う。
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