「この映画の“全共闘”って何だ?」三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 Imperatorさんの映画レビュー(感想・評価)
この映画の“全共闘”って何だ?
あらかじめ「三島由紀夫全集 40」のテキストで読んで、“観念的で退屈な討論会”という印象だったので、それをどう料理するのか興味があった。
ところがこの映画では、学生側の発言は大幅にカットされ、また、三島と学生との話は“かみ合ってなかった”のに、“かみ合っていた”かのように編集している。
自分は、小熊英二「1968」や山本義隆「私の1960年代」を、斜め読みした程度の知識しかない。
そのせいか、「東大安田講堂事件」から3ヶ月以上経った中で、この「奇跡的な中立地帯」900番教室に詰めかけた“全共闘”たちは、「一体、何者なのか?」がよく分からないのだ。
様々な組織やセクトがあった中での、“全共闘”という大きな連合体ないし一つの組織のはず。その点の解説なしに、「vs東大全共闘」もへったくれもないのである。
例えばこの映画では、「随一の論客」で「芸術至上主義者」の芥正彦を、あたかも“東大全共闘”の代表であるかのようにフィーチャーしているが、適切なのか?
橋爪大三郎が「“政治”はもはやNGだから“文化”。古くさい知性を燃やす」ために三島を呼んだと語っているから、芥が出てきても良いのだろう。
しかし、芥はしょせん、まとまりのない討論会を面白く見せるために選ばれた、キャラの立ったキャストだ。彼の「解放区」は、おそらく彼の演劇の中にしか存在しない。
映画の中で論じられたテーマは、天皇論を除けば、「言葉の有効性」、「非合法の決闘」、「他者の存在」、「生産の場としての自然」、「解放区」、「行動の無効性」などと記憶する。
これらの哲学的談義は、いくらか“全共闘”の活動理念と関わり、また、いくらか“三島”的であっても、少なくとも当時、“東大全共闘”が掲げた現実的要求との関連性は乏しいはずだ。
さらに言えば、すでにこの時期には、“東大全共闘”そのものが矮小な存在ではなかったか。
いろいろな解説や証言が出てきて、いささか冗長ではあるがバラエティ豊かで、背景も含めて分かりやすいところは良かった。
瀬戸内寂聴が出てくる意味は疑問だが(笑)。
人選にも、おそらく問題があるはずだが、自分にはその是非は判断できない。
ただ、平野啓一郎の解説には、私見が入っているはずだ。
また内田樹は、60年安保からの流れに言及して、「三島と全共闘は、反米愛国運動で共闘できる」と見るが、見当違いだと思う。
この作品の見どころは、単純に“実際の状況が分かる”ということに尽きると思う。
「三島全集」では、“全共闘A”(木村修)とか“全共闘C”(芥正彦)などとしか書かれていない。
三島は不敵な笑みとタバコで、体面を取り繕っているが、とても自然体で、もはや迷いなどないように見える。
しかし、こんな恣意的な編集映像からは「圧倒的な<熱量>」など感じられなかったし、「50年目の真実」というほどの新事実もないはずだ。
三島の発言は多く収録されており、面白かったことは間違いないが、“東大全共闘”側の実態が乏しいことを考えれば、映画の題名は誇大な宣伝である。