「「言葉が力を持っていた最後の時代」」三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 andhyphenさんの映画レビュー(感想・評価)
「言葉が力を持っていた最後の時代」
全共闘の名を知ったのは「ぼくらの七日間戦争」を読んだときだったと思う。あれは中学生が学校に反旗を翻す物語だが、主人公らの親が「全共闘世代」といい設定である。子どもらはそれをスマートに模倣してみせるわけだ。
「ぼくらの七日間戦争」が1985年刊。その時点で「全共闘」は遠くなりつつあるものだったのだ。
さて、この映画で映し出されるのは、安田講堂陥落後、1969年5月13日に開催された、東大全共闘と三島由紀夫の討論映像である。
碌に知性を育んでこなかった者にとっては難解極まりない議論である(反知性主義の意味を考えさせられる)。芥正彦は若者特有の詭弁から抜け出せてないように見えるのはわたしだけだっただろうか。しかし73歳の彼も一貫していたので、「彼」は自身を曲げなかったのだという、なぜかしらの安堵感があった。
討論は激昂することなく展開され、お互いの共通項も見出されつつ、それでいて徹底的に空転しているようにも見える。
「世代の差」はやはり大きく、再三指摘されるとおり、三島由紀夫は「生き残ってしまった世代」であり、「天皇」に対するアンビバレントな感情を隠さない。対して東大全共闘の思想、そこには「闘う」という意思を持ち行動しつつも、それがどこへもいけなくなっているものを感じる。闘争の疲弊は必然だったようにも思う。学生運動、新左翼が先鋭化するのはある意味帰結点だったような。
とはいえ。そこで言葉を放つことが重要なのだ。「媒体として言葉が力を持っていた時代の最後」と芥は語るが、認めざるを得ない。今、この世の中でこんなに言葉は力を持つだろうか?
しかし、この1年半後に三島は自決するのである。もう既に片鱗を感じてしまう。「熱情に期待する」三島の姿に。具象として何に対して熱情しているかは別にして、三島も全共闘も熱情していたのは確かだ。
ちなみに私の母校(高校)は学生運動の煽りで制服と校則がなくなったので、決して学生運動は失われた遠い時代のものだけではないことは書いておこうと思う。