「家庭という名前の地獄もある」幼い依頼人 redirさんの映画レビュー(感想・評価)
家庭という名前の地獄もある
本作品を見たのは2022年齢11月。日本でも,安倍銃撃事件、統一教会の問題に端を発し,政府与党自民党,さまざまな宗教団体、日本会議など怪しい人らが怪しくないそぶりで、さんざん提唱し押し(ゴリ押し)してきた家庭教育支援法の欺瞞、危険さかクローズアップされて以降。
日本でも韓国でも世界中どの国でもどんな時代にも,児童虐待は社会的弱者や自分より弱いものを虐待することはなくなることはなく,それが実の親であることもあり驚くばかりだがこのようないわゆる継親によりなされることもある。
親権とはなんなのか。家庭教育支援法のようなものが推進されかつ2020年に夫婦別姓さえもままらない国である。社会の宝である子どもの生き死にや,自由に生きる権利はさまざまなレベル感で否定されたり隠されたり見てみぬふりをしたり、法制により逆に不自由が支援されている状況ということを考えるきっかけになる。
裁判で争う,子どもが弟殺害の犯人なのか母親が虐待しさせたのか、そこに至るまでの,おそらく日本でも児童福祉課や警察、学校教員や地域のさまざまな方が悩み苦しみ支援しきれてない状況や、近所の人いわゆる世間が見てみないふりをし、家庭内のことは家庭内のこととさわらぬ神にしていること、知ってしまった自分はどうするべきか。
冒頭の,傍観者に罪はあるかなきか。
ぱっとしない法曹生、やがてソウルの大手法律事務所に迎えられ高級車を与えられ、田舎出のたいした取り柄もない若手弁護士なんて大企業や富豪を守る法律事務所で汚いことをさせるための捨て弁護士であろうということ。
母親とはなにか、
自分は一応親もいるのでそのことが大事なことかどうかは共感力なくそんなになんとも思わないが、そのことを問うとき問われる時,全ての人が審判に立たされるだろう、母親にならない人もいる,しかし皆母親なるものから生まれてくるのだから。しかし母親も人間でしかない。
裁判終盤で、母親とはなにか,と問いながら母親がやることをやってると反論する鬼母に対し,それは人間として当たり前,人間としてどうなのか、と問いただす。全く共感する。
ダビンが継母に殴打される現場からドアを蹴破りなんとか連れ出し、アジョシ(主人公)の姉の家についたとき、同じような年齢の子を育てている母親でもあるアジョシの姉に保護された時初めてダビンの方からそっと抱きしめるシーンが印象的だ。(虐待の恐怖から大人,他人に触れられることに極端な恐怖と嫌悪をダビンは感じていたので)
主人公のアジョシ(単におじさんという意味、ちょっとお名前失念した)がそれより前,最初にダビンが病院に担ぎ込まれ入院したとき,安心して手を伸ばしてきたダビンのその小さな心もとない手を握らずそっと布団に戻したアジョシとの対比。その後のアジョシの,正しいことやるべきこと有益なことをやるとなって展開していく前提は、アジョシ本人も含む,世の中の見てみぬふり,無関心だ。
家庭内のことだから、親が決めることだから、
そういう古臭いことを新しくまたやろうとしている人たちが牛耳るこの国で、よその国のこととは思わず,自分のこととして学ぶべきテーマ。
そして子どもは親のものではない。母性とか親権とか家族の絆とか血のつながりとか、そういうことに囚われルべきではない。
統一教会騒動のおかげで,家庭とか平和とか自らの欲,権力なんのためわからないけど振りかざすおかしい勢力に光が当たり暴露されてきた今,そんなことも考えながら、他国他人の話かわいそうなひどい話ということで済ませないで,現実と未来のことに想像力洞察力動員して見るべき。
それにしても、継親役の美しい俳優さんの演技。怖くて鋭くこの人も母親を知らんということを世間社会世界への復讐を無意識にしているような佇まいがすこい、ダビンもすごい演技力があり他の子役たちも。そしてアジョシもいいけどアジョシの姉の,古い言葉だと肝っ玉母さんという具合の人なんだが、その人がとてもよい。この人が人間らしさをさりげなく担当していてこの作品が暗くなりすぎない。