「「実写」映画の内幕ものを「アニメ」で観る面白さ。技法と題材と作り手のエゴが交錯する90分!」映画大好きポンポさん じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
「実写」映画の内幕ものを「アニメ」で観る面白さ。技法と題材と作り手のエゴが交錯する90分!
映画撮影ものには、それだけで映画ファンの心を強くゆさぶるところがある。
古くはトリュフォーの『アメリカの夜』やゴダールの『軽蔑』、比較的新しいものだと『リビング・イン・オブリビオン』や『地獄でなぜ悪い』、もちろん『カメラを止めるな』も。ああ『全裸監督』だってそうか。
僕自身は映研に属したこともなければ、自主映画に関わったこともない一介の観る専ファンに過ぎないが、こういう内幕ものはそれだけで観ていてとても楽しい。
自己言及性、テーマと手段の混淆、イレコ構造の生む思索性。
くすぐられるシネフィルとしての仲間意識、共犯性。
何より、「映画についての映画」は、とことん監督にとっての私小説的な省察にしかなり得ず、そこそこ羞恥プレイめいた要素があって、その気恥ずかしさが観客にも伝染し、むずがゆくさせるのかもしれない。「映画の映画」は、撮ったことがない人間にも、何かしらのノスタルジィと懐かしさを共有させる不思議な装置だ。
『映画大好きポンポさん』は、そんな「実写映画の制作現場」を「あえてアニメというメディア」を用いて描いてみせた作品だ。
この「実写」を「アニメ」で、というのがおそらくなら本作のキモなのだろう。
そりゃあ原作が漫画なんだから、アニメ化して当たり前だろうと言う意見もあると思うが、意外に「実写」と「アニメ」には表現メディアとして大きな懸隔がある。実写の撮影裏話を「アニメ」でやるとなると、作り手はかなり自覚的に手法を取捨選択し、再構成する必要が出てくるのだ。
たとえば、『ポンポさん』では、技法としてはむしろ実写映画に近いカメラワークやモンタージュが多用されている一方、アニメ的なデフォルメや誇張されたレイアウト、非現実的なアクションは、思いのほか抑制され、限定的使用にとどめられている。これはじつに興味深いことだ。
とにかく、冒頭からラストまで、カット割りが異様に多い。
で、カット毎にパンしたりズームしたりぐるっと回ったりと、カメラの動きがひたすらうるさい。
その映像感覚は、「アニメ」的というよりは、間違いなく「実写」的だ。
私見をいえば、このみっちり濃縮されたカットが、息つぎする間もなく詰め込まれていく感じは、マーティン・スコセッシの中期作品にとても近い。と思って、鑑賞後にパンフを見たら、監督が好きな映画に『グッドフェローズ』をあげていて、ああやっぱりな!!と。
それから、本作ではスプリット・スクリーンや逆回し、早送りなど、いかにも気の利いた実写映画らしい仕掛けも多用されている(てっきりガイ・リッチー由来かと思ったら、監督いわく『127時間』が元ネタとのこと。ああ、ダニー・ボイルのほうか(笑))
要するに、本作はアニメ映画でありながら、「映画オタクのシネフィルが撮った実写映画」の外観を、ねちっこく追求し続けているのだ。
では作中、いちばん「アニメ的」な演出が観られるのはどこかというと、それはもうジーンくんが「編集」をするあたりのシーンにとどめをさす。ここでは思う存分、アニメ的な特殊効果と空想的なレイアウトが導入され、「アニメならでは」の画面づくりが追求されている。ここだけは、抑制を解いて「アニメっぽくやらないとうまく表現できない」部分だと制作陣が判断した、ということなのだろう。
でも総じて本作は、実写寄りのテイストを無理やり身にまとっている。それは間違いない。
だが一方で、キャラクターデザインや、演技の方向性、各キャラクターの動かし方などに関しては、思いがけないくらい「旧来的な萌えアニメ」のそれを踏襲している感じがする。
そりゃ原作準拠なのでは、といわれたらそれまでなんだが、あれだけ宮崎駿や細田守や新海誠や片渕須直ら、長編アニメ映画の監督たちが自作の作品から拭い去ろうとやっきになってきた「深夜アニメの臭い」を、なんだか当たり前のように(それも実写映画を模倣するつくりをわざわざとっている作品に)しれっと取り込んでしまう感覚は、やはりちょっと独特だと思う。
結果的に、本作は「いかにも日本のアニメっぽいキャラクターたち」が「妙に実写的技法にこだわって組み立てられた映画」の主演をつとめるという、初音ミクめいた「ひねり」を生じており、その奇妙なツイストが独特の味となっている(そのへんの感性は、もしかすると京都アニメーションに近いのかも)。
本作で特に重視される「編集」作業についても、実写とアニメで編集のやることにかなり差がある以上、「アニメという表現手段でこのネタを大きく扱うこと」自体、なかなかひねくれていると思う。
実写では大量のフィルムを「切り詰める」引き算が編集の大きな役割となるわけだが、アニメでその作業は作画の前段階となる絵コンテで先に済ませておくことなので、何十時間も後からカットすることは「絶対に起こらない」。アニメは設計図通りに、必要なものだけ作ることを基本とするからだ。
本作では、そんなアニメを用いて、撮りまくったフッテージを「捨てていく」実写映画編集マンの痛みと恐れと勇気を、いかにも「同業者として共感している」体で語っている。
この「ズレ」は、なかなか面白い。
とにかく、小気味よいテンポで、明るく前向きに描きだされるその内容は、青春群像としても、お仕事アニメとしても、じゅうぶん口当たりよく楽しめた。
テーマ性については、あまりストレートに出されると若干こっぱずかしいところもあったし(創作者にコミュ障や根暗やアスペが向いてるのも、実生活で浮かばれないほうがいいのも、当たり前すぎて真顔で語られてもちょっと引いちゃうかも。それ自分で言っちゃうんだみたいな)、オリキャラであるアランが作品にしっかりなじんでいたかというと疑問もあるが、原作未読の僕にとってはストレスの少ない、完成度の高いアニメだった。
原作改変は好悪の分かれるところだろうけど、作中のジーンが「自分」の尺で作品の核となる要素を判断し、切り詰め、さらには追加していった流れを「成長」として肯定するなら、同じことをやろうとした平尾隆之監督のチャレンジだって認めてあげたいと思う。
とくに文句があるとすれば、(これは『映画版SHIROBAKO』でも思ったことだが)肝心の作中作がちっとも面白い話に思えないところかなあ(笑)。
偏屈の老指揮者がアルプスで少女と出逢って再生するとか、そんな陳腐な話でアカデミー賞はさすがにとれねーだろっていう。てか、作中で周りに褒められている演出やアイディアの大半が、たいしてうまくいっているように見えないのもまあまあつらい。あれだけごり押しして撮りたかった追加撮影シーンについても、傍目にはそう「絶対不可欠な」シーンにはどうしても見えないのだが。他のみなさんは「ああ、たしかにこのシーンがあるとないとでは大違いだよな!!」とか、本当に思われたのだろうか?
あと、ここだけはちょっと真面目に文句を言っておくが、クラシックがらみの部分については、もう少し説得力が欲しかったし、もし原作準拠なのだとすれば、それこそちゃんと音楽監修をつけてきちんと改変してほしかった。
まず、モダン・オケでマーラーの交響曲第1番を振ってるような指揮者の勝負曲が、よりによって今は古楽演奏がメインの「マタイ受難曲」だってのは、普通に考えるとほぼありえないシチュなので、違和感はバリバリに大きい。なんだろう、僕の知らない有名な指揮者とかを念頭に置いているのだろうか? (そもそも、マーラーの「巨人」の演奏でフルートの出来を咎めるなら、それは第四楽章より第一楽章で発生するイベントのような。これもなんか元ネタがあるのか?)
たしかに「マタイ受難曲」はフルで演奏すると3時間かかる大曲なので、これを扱う演奏会はある種の「大イベント」ではあるのだが、ピリオド出身でもない大家が、自分のキャリアをかけてはりきって振るような曲ではない。あと、技術的にそこまで厳しい曲ではないし、力量のある歌手がそろえば形はつくので、指揮者とオケの心がどれほど離れていようと、翌日の新聞で叩かれまくるような演奏になるタイプの曲ではない。たとえば「春の祭典」や「トゥーランガリラ」が難しくて振れない、弾けない、というのとはまるで話が違うのだ。
「マタイ受難曲」のアリアが、「これが僕のアリアだ!」みたいな使い方をされてるのも、激しく抵抗を感じる。そもそもマタイにアリアは14曲あるし、アリアは楽曲の形式であって「アリア」と呼ばれる曲があるわけではない。それに、マタイのアリアと言われて、一般の音楽ファンがぱっと想起するのは第39曲の『憐れみたまえ、我が神よ』だと思うのだが、本作で採用されているのは(パンフでも確認したけど)第52曲の『わが頬の涙』である。この曲を指して「マタイといえばこのアリア」って言い方をふつうはしないし(本当に聞いたことがない)、そもそも「バッハのアリア」といえば、一般の人にとっては管弦楽組曲第3番由来の「G線上のアリア」のことだろう。だいたい、歌手の果たす役割が圧倒的に大きい独唱曲で、指揮者が「これが俺のアリアだ」って言うのも、かなりおかしい言い草だ。
このへんを適当にやっていると、「リアルな映画づくり」を描く映画そのものを害してしまうし、ひいてはジーンくんの才能にも疑念が湧いてしまうわけで、もう少しなんとかしてほしかった。
あと、どうでもいいことだが、劇中でビゼーの交響曲が鳴っていた記憶があるのだが、パンフの使用音楽に入っていないのはNaxosの音源を使っていないから? そんなことでいいのだろうか。
とまあ、文句も書いたけど、映画好きが観て、刺激を受ける作品であることには変わりない。
ぜひ、みなさんご覧になって自らの目で確かめてほしい。
最後に声優陣について。
小原好美は、さすがの貫禄。
「深夜アニメっぽい臭み」を残しつつ「実写映画に寄せる」という本作の基本コンセプトをまさに「声」で体現する存在として、作品を支えていた。
『月はきれい』でイモのぬいぐるみさすって偽ざーさん呼ばわりされてた子が、ここまで成長したかと感無量。この人は、シャミ子といい、藤原書記といい、ルンちゃんといい、ロキシーといい、自分に合う役をゲットすることに本当に恵まれている。
ジーン役の清水尋也は、初声優とは思えないくらいこなれた演技で違和感を感じさせなかった。ティム・バートン系のヤバさもきちんと出せていたし、抜擢は成功だったと思う。
ナタリー役の大谷凜香は、お世辞にも上手とはいえなかったけど、監督はあの声質が欲しかったんだろうなあ。たしかに、これはぐっとくる声だ。
なお、大塚明夫は大塚明夫って感じでした(笑)。
あと、ポンポさん、『ニュー・シネマ・パラダイス』が長すぎるっていってましたが、あれこそはまさに「(とあるシーンの)フィルムのカット」が作中で大ネタとして出てくる「映画についての映画」でありながら、「実際の上映時に、思い切った50分近いカットを行って映画が蘇った」好例(完全オリジナル版が173分、イタリア上映版が155分、国際上映版が123分。国内版が不入りだった結果、監督が泣く泣く後半をがさっとカットした世界公開版が、各国で空前の大ヒットを記録した)。本作の引き合いに出すには、ちょうどぴったりの映画だった。
あれ、ホント青年編以降はゴミみたいな内容だからなあ。