2人のローマ教皇のレビュー・感想・評価
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「コンクラーベ」が「ダンシング・クィーン」とは!
初頭に登場するセリフ
「チェンジはコンプロマイズか?」
フランチェスコは「変化に屈した」のではなくて、「コンプロマイズ」したとこの映画では主張している。日本の芸術の「藤田嗣治」や「三島由紀夫」を思い起こさせる。
「神も動いている」「動いているなら、どこを探せば良い」「旅先とか?」
「君はプライドの塊だ」
「アルゼンチン人が自殺する方法は?プライドの山から飛び降りる」
「ローマ法王フランシスコ」ベンダース監督のドキュメンタリーだか、流れが全く同じ。
そして、この二つの映画は「教育選挙、コンクラーベ」へと続く。
「事実に基づく映画」としては、傑作だと思う。
確かにベネディクト16世が選ばれた時に「ナチスの教皇!?」って思った事はある。そして、その後のカトリック教会の失態を「ベネディクト16世」の失態ととらえていた。だがしかし、教皇が辞任するのも約700年ぶりなのだから
「ベネディクト16世」も評価出来る教皇だったのかもしれない。
フランチェスコ教皇は大変に気さくな教皇だと聞いていたので、システィーナ礼拝堂へ3日間通い詰めた事がある。残念ながらこう言った偶然には出会えなかった。実際のシスティーナ礼拝堂はもう少し暗い。最後の審判の右側の「涙の間」から度々司祭が出て来る時があって、エチオピア若しくはナイジェリアの枢機卿(司祭)が説教をする事がある。イタリア語なので、何を言ってるか分からない。
(ダンシング・クィーン」で始まる
「Ciao, Bellaーさらば恋人」レジスタンスの歌。
(ガキの頃、オジキに聞かされて大好きな歌)
「この手に大地を」壁ではなく橋をの落書きにピタリ。
「ブラック・バード」平和と自由を願うビートルズのポール・マッカートニーの歌。
「聖フランチェスコはイエス・キリストから教会を立て直せと啓示を受けた時にレンガを用意した」と言うセリフにあっている。
そして
「ベサメ・ムーチョ」は最後の2人にあった歌。
2人にの会話で構成された密室劇なのだから、フィクションなんだろうが。
お二人とも天に召された今は、その確認はしようがない。
傑作だ。
追記
最初日本語吹替で見たので、何語をしゃべってんだ?と思って2回目を見ていたら、やめられなくなって二度見した。
追記
小津安二郎監督の匂いが漂っていたなぁ!
追記
この気さくで変革者と言われた教皇でさえ、変革出来なかった事がある。それを象徴的に描いたのが、1956年に「最愛の人を選ばない事」だったと解釈した。人類の半分が神の前で平等でないのは、カトリック教会の最後のタブーなんだろうね。
実話に着想を得たストーリー
映画の『教皇選挙』を見て面白かったので
少し前に話題になったこちらも見てみた。
フィクションと思っていたら 先日亡くなった教皇フランシスコとベネディクト16世の物語であった。
事実関係は本当にあったことだろうが、2人の間に何があったのかは誰も知らない、俗にいう神のみぞ知る というやつだ(これが適切な表現なのかはわからない)
どんどん引き込まれていった。それぞれに正反対なのに、それが対立する理由にはならないんだな。2人ともとても魅力的な人物で、これが教皇の器というものなのかと。
とても良い映画だった。レイフ•ファインズもいいけれど、この爺様たちには敵わないなと思った
ビートルズの使い方もすごくいい。
これぞ対話…
爺さん同士の高尚な口喧嘩。いやいや、これぞ互いの違いを見出し、尊重し、寄り添い、認める。どこまでが実話なのか分からないが、教義に対する考え方も性格も違う2人が腹を割って話し合う、当に対話を2人の名優が見事に演じている。神に仕える身であっても互いに罪を犯し、それを悔いている人間なのだ。バチカンという密室性、秘匿性、ミステリアスな部分が2人が演じることにより、より人間らしい親しみやすさを感じた作品。
なぜか笑顔になる
なんの前情報もなく観始めたが、よかった!
人間味あふれる2人の会話に引き込まれた。
堅苦しい作品ではないし、何も宗教的な説教があるわけではない。カトリック信者なくても飽きずに観られると思う。
今はミャンマーが大変な時期だけど、アルゼンチンも大変な時期を乗り越えてきたんだな、と知る。
教皇が告白するシーンも。
教皇だって人間。
神と会話が出来る?のかもしれないが、神ではない。音楽も聴くし、ピザも食べるし、サッカーに興奮する。(笑)
サッカーが好きなので、最後のシーンは良かったなぁ。作り物ではない、本物のワールドカップの試合。しかもブラジルがドイツに大敗した時のやつ!(涙)
マスチェラーノ、イグアイン、ここで観られるとは〜!
ダンスをしたり、テレビでサッカーの試合を観たり。そんな2人の姿を観ながら周りがSPも笑顔になっていた。それを観て、自分も笑顔に。
ホプキンスも適役だったけど、ベルゴリオ役のプライスもよかった。
良い作品と出会えて幸せ。
2人の名優による良質の会話劇が圧巻
当時のローマ教皇から次期教皇へと代替わりをするその時を描いたドラマということで、観る前は一体どんな作風になっているのだろうかと、予想もつかないような気持ちだった。観終えた印象でいうと、舞台戯曲×ドキュメンタリー×歴史ドラマというような不思議な感覚と言えばいいのだろうか。例えば、ジョナサン・プライスとアンソニー・ホプキンスのシーンは会話劇の要素が極めて強く、宛らそのまま舞台戯曲に展開できそうな佇まい(追記:こう書いた後で、この作品が戯曲原作だと知りました)。そしてホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(当時)の回想として描かれるシーンは歴史ドラマや伝記映画の雰囲気。そこにニュース映像を模したようなドキュメンタリー風の(この辺はメイレレス監督らしい演出という気がする)世相を描き出したリアリティのあるシーン。という具合にそれぞれ別々の特徴を持った演出が与えられ、それらが複雑に絡まり合って一本の映画になったような。それでいてそれらが齟齬を起こすでもなくそれなりにまとまって見えるというのは、なかなか凄いことだと思うし、なんなら最終的にはハートウォーミング系の映画のように回収して締め括るものだから「この映画のジャンルは?」と訊かれても一言で答え切れないような、不思議な感覚のする映画だった。
それでも一番の見所はやはりプライスとホプキンスという名優の演技対決になるのではないかと思う。片や枢機卿を辞意を抱き、片や教皇の座を譲り渡したいと考えているという対極な二人が、それぞれの思惑を抱えつつ交わすやりとりと駆け引きを実に充足感の在る見応え魅せてくれて、かと言って主演のお二人とも力んだような大芝居を打つでもなく、さらさらと台詞を放っておきながらその一言一言にぐっと惹きつけられるパワーのようなものがあって、名優ってひたすら凄いなと思うばかり。『天才作家の妻』の時には堅物にしか見えなかったプライスが本作では実に柔和でキュートな人に見え、ホプキンスに至っては彼にとっての新たな名演と言える作品になったのでは?と思うほど素晴らしい演技だった。もう惚れ惚れ。尚且つ会話劇として非常に良く出来た内容で、前半でさらりと交わした会話が後半で立場を逆転させて再浮上したりといった技巧のほか、運動不足を報せるアラームがうまく場面転換を促したり、窮屈になりがちな会話劇に風を通して軽やかに魅せる。単純に二人が会話を交わすシチュエーションの美しさやにもうっとりさせられるし、いっそ全編に亘って二人の会話劇で映画を成立させても良かったのではないか?と思うほど。
というのも、途中で挿入される回想シーンがやや中途半端というか蛇足のように思えてしまったからかもしれない。もちろん教皇フランシスコの人となりというか半生や、現在のカトリックの信念に行きつくまでというようなその過程という意味では描かれて疑問のない内容ながら、あえてそれを映像化し視覚化させてまで描くほどの魅力までは導き出せておらず、いやはやジョナサン・プライスほどの名優ならば、もしかしたらわずか一言の台詞や表情のひとつでさえ、あの回想シーンの本義を物語ってしまえたのでは?など私なんか思ってしまった。事実、もう一方の名優アンソニー・ホプキンスはベネディクト16世の告解を余分な説明を加えることなく語りつくしていたわけだし。
それにしても、他国ではこの映画にしろヘレン・ミレンの「クィーン」にしろ、王室やカトリック協会のしかも存命中の関係者をメインにしたフィクション映画を作ってしまえるというのにいつも驚く。この映画も”Based on a True Story”ではなく”Inspired by a True Story”ということである以上、教皇を主人公にしつつも史実がどうこうというよりフィクショナルな面が大きいと思われ、かえって史実と違うとはっきりしていた方が安心するものの、だからこそフィクションを現教皇を主人公にしてやれてしまうっていうことが単純にすごいなと思う。日本に置き換えて考えたところで到底ないことだろうなぁと思う(別にやれとも思わないけれど)。
あと若干、現教皇のプロモーションっぽい感じが否めないでもないようなないような・・・。
ドイツvsアルゼンチンの頂上決戦!
あながち間違いではない。
Netflixオリジナルだが劇場公開しているところを求めてねじ込んで観た。これも『ROMA』のように、音響効果をちょいちょい仕込んでいるので、劇場で観て正解だった。
「もしもし、ボク○○。飛行機のチケット取りたいんだけど」
「あら、教皇様と同じお名前とはステキですね。どちらにお住まいですか」
「うん、本人です。住所はバチカン」
「イタ電やめろや」ガチャン
「えっ」
イタ電扱いされて自分で飛行機の予約ができない教皇…カワエエ。
観る前はお爺ちゃんたちの茶飲み話が延々続くならちょっと辛いかもと覚悟していたが、ベルゴリオ枢機卿のアルゼンチン軍政時代の回想シーンにも時間を割いており、そもそもお二方のやりとり自体も面白くて見てて飽きない。
ご本人にそっくりだというジョナサン・プライスに加え、悪人顔で結構ネタにされていたベネディクト教皇はアンソニー・ホプキンスなのでラスボス感も申し分なし。二人の会話シーンはなんかドキュメンタリー観てる気になるほど違和感がない。
最初は意見の相違で対立していたはずなのに、だんだんお互いを認め出したと思ったら、いつのまにかじゃれあいだして、ラストの仲睦まじさときたらもうね。その上そろってアカデミー賞候補とは…。
結論:ドイツ優勝。
追記
そしてベルゴリオ枢機卿はフランシスコ教皇となり、先日永眠された。天国へのチケットは取れたのかな。
このふたりの人間
タイトルに示される「2人のローマ教皇」とは、前ローマ教皇ベネディクト16世と現ローマ教皇フランシスコ教皇のこと。
ふたりの確執と、それぞれの過去、そして未来への物語が、ふたりの対話を通して描かれます。
前教皇は保守派、現教皇は革新派と言え、確執は2005年のコンクラーヴェ(教皇選挙)の時から描かれます。
このコンクラーヴェの時は、ふたりはどちらも枢機卿であり、結果として、ラッツィンガー枢機卿が選ばれ、教皇ベネディクト16世となる。
なるほど、名跡襲名みたいなものなのね。
ラッツィンガー枢機卿→前教皇ベネディクト16世、ベルゴリオ枢機卿→前教皇フランシスコだ。
前者をアンソニー・ホプキンス、後者をジョナサン・プライスが演じていて、どちらも素晴らしい。
ふたりが面会し、対話するきっかけとなるのは、2012年、カトリック教会が性的虐待スキャンダルで揺れている中で、教会側の方針に不満を抱いているベルゴリオ枢機卿がベネディクト教皇に辞任を申し入れにいくところから。
辞任しようとしているベルゴリオが、最後には教皇ベネディクトの告白を聴き、赦しの秘術を与えて、立場が入れ替わるまでに、ふたりの過去が描かれていく話術も申し分ない。
特に、分厚く描かれているベルゴリオの過去、若い時分の愛する女性との別れと、教区主任になってからの軍事クーデター後の独裁政権に図らずも与しなければならなかった過去は見応えが十分。
彼が口にする「妥協ではない。変化したのだ」の台詞も心に響く。
対して、ベネディクト教皇の過去はややあっさりと描かれており、教会による性的虐待に対する隠蔽(というか、日和見的で事なかれ主義的な対応)については明確に描かれているが、教皇就任直後から人々に口端に上る「彼はナチスだ」についてはあまり明確には描かれておらず、そのあたりはもどかしく感じました。
(気になったので調べてみたところ、彼が10代の頃の第二次世界大戦下のドイツでは、少年期にはヒトラーユーゲントに属さなければならず、彼もその一員だった)。
と、このような重い題材であるにも関わらず、映画は全編をユーモアを交えて描いており、軽みのなかで活きる「人間ドラマの重み」が感じられて素晴らしい出来栄えでした。
赦しの秘術を受けたベネディクト教皇が、奥の涙の間から観光客が屯する表の礼拝室にあらわれ、皆の取り囲まれるシーンは微笑ましい。
セキュリティスタッフが駆けつけようとするのを制して言うベルゴリオの台詞がこれまたいい。
「このままでいい。彼は幸せなのだから」
最後に、この映画を観てカトリックが説く愛についての自分なりの考えをまとめると、
愛すること=相手のことを受け容れ、理解すること、そして赦すこと。
愛されること=理解され、受け容れられ、赦されること。しかし、赦されたからといって、これまでのことがなかったことになるわけではなく、そこから、より善きひととなるスタートに立つ、ということ。
赦しの秘術を与えたベルゴリオも、同時に、より善きひとになり、善き世なるスタートに立ったわけである。
原題「THE TWO POPES」、「このふたりの人間」というタイトルもシンプルで力強く感じました。
「汚い戦争」への悔恨と赦し
アマプラ派で、Netflix未加入なので、映画館で観ました。
たまむすびの町山解説の通り、お爺ちゃん2人がイチャイチャするブロマンス要素も愉しいですが、やはり一番グッときたのは、ベルゴリオ枢機卿が語った悔恨でした。
🙏
正直不勉強で、軍事政権下での圧政(汚い戦争)については無知でした。
Wikipediaで復習し、弾圧で国民の3万人近くが行方知らずになった事、弾圧に協力したとカトリック教会も批判された事を、確認しました。
ベルゴリオも同様の批判の対象に。
ただ、彼が弾圧に積極的に加担した事実はなく、独裁者に声をあげられなかった事情も、同情されてもいます。
白を黒に変えてしまう独裁者に、闇雲に立ち向かうのは、本当の勇気でしょうか。
そこで命を落としてしまっては、蛮勇にすぎないのでは。
表面上は従っても、命を無駄にせず、できる何かを模索すべきでは。
事実、映画でも語られたように、ベルゴリオが逃亡に協力し、救われた命も多い(ベルゴリオズ・リスト)。
それでも、貧困者を救おうとした仲間を庇えなかったのは事実。
飄々としていたベルゴリオ、悔恨に沈んだ表情が印象的。
ただ、その悔恨こそが、彼が人に耳を傾け、頑な心に(妥協ではない)変化をもたらしたのかもしれない。
だからこそ、神には赦しを与える包容力が必要なのでしょう。
🙏
ベネディクト16世が語った"沈黙"は重い。
ただ、信仰がない無神論者にすれば、いない神に言葉を貰えないのは当たり前。
それでも、人生に迷った時、聖書や経典を絶対的正義として規範にできることは、時々羨ましく感じます。
神が自分を見ていると思うことで、自身の行動を律しやすいでしょう。
神との対話は、本来は内省であり、自分の心に育てた神への忖度。
だから、自分で答えを出すことを諦めて、存在するはずのない天の神を求めてしまうと、"沈黙"を感じてしまうのかもしれません。
人は異なる価値観に融通を効かせて営みを続ける
期待以上に面白かった!
主人公は全く価値観が違う二人の老人だ。
信仰が同じ宗教家であっても、二人の溝は深い。
それ位、人の価値観が合致することは早々ないものだ。
しかし、物語の展開とともに、お互いが歩み寄る過程が楽しめる。
この映画では、二人が距離を縮める過程で神の存在が大きく寄与した。
世の中の大半の人は自分の価値観に融通をつけながら、
日々を過ごしているのではないだろうか?
職場であれ、家庭であれ、恋人であれ、100%価値観が合致すればいいのだが、
我慢や譲り合いはあるはずだ。
しかし、価値観のズレがあっても何か共有できる軸があれば、
融通をつけながらうまく共生できるのだと感じた。
その軸は、宗教なのかもしれないし、もっと素朴な要素なのかもしれない。
日々の悩みやモヤモヤを解消してくれるような素晴らしい映画かもしれない。
神父も一人の人間
信仰している宗教が全くなく、あまり宗教に詳しくはないが、ベネディクトとベルゴリオの二人の会話を楽しむことができた。
保守派のベネディクトと改革派のベルゴリオは本来は価値観としては真反対の人間である。そのためベネディクトとは当初はベルゴリオを一方的に毛嫌う態度を取るところから始まる。その時点から彼の人間味あふれる姿が見え始めるわけだ。
その後ベルゴリオが辞職を提出しにベネディクトに会いに行く事をきっかけに、彼らが会話を交わすのだが彼らも司教の前に一人の人間である。サッカーも好きであれば、ピアノも弾く。ビートルズが好きであればピザも頬張るように食べる。
神格なる職業であるが、人間味あふれる一面をとても楽しむ事ができた。
神父を取り扱う作品は日本ではあまり身近にある存在ではないため、しっかり理解をできてるかどうか不安にも思うが、この作品は彼らの会話を楽しめる作品のため気軽に見ることができる気がする。楽しかった。
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