ドリーミング村上春樹のレビュー・感想・評価
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カエルがずっと隅っこに・・・あれはカータンではないだろうな?違います。カータンは河童です。
カエルの映像がちょっとヌメヌメしていたりしていたが、彼らは元々害虫を食ってくれる貴重な益獣なので安心して観られた…で、なんでカエルなのか…村上春樹作品を一つも読んでないことに気づき、帰りに「風の歌を聴け」の文庫本を買ってきた。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」と、冒頭からメッテ・ホルムさんのテーマとなっている言葉が目に飛び込んできた。“完璧”とか“文章”という訳語に困っていたようだが、冒頭文でもあるのでかなり決め手となる言葉。“文”と“文章”は違うなど、まるで国文法の授業を受けてる気分にさせてくれる映画でもあります。しかし、そのためにわざわざ来日までして翻訳家仲間と相談し合うなんてことがネット社会でありうるのか(脚本があるみたいだから、そのためかもしれない)。スウェーデンの翻訳家、あとはどこだか忘れた国の翻訳家など。彼らが話し合う言葉が英語だということも興味深い。
日本の文化、精神についての話題。日本の新聞を読むためには1850語を習得すればすむのに、村上春樹を理解するにはそれだけでは足りない。そうした観念的な話題をも含め、春樹作品にはパラレルワールドが用いられ、体制批判などといったメッセージはそのパラレルな精神世界でぼかしているなどという興味深い点も教えられた。そしてアイテムとしてのカエル。とにかく春樹作品に触れてみなければわからないと思い、「風の歌を聴け」を買ってはみたけど、いつになったら読めるやら・・・
翻訳の仕事
『完璧な文章などどいうものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね』をどう訳すかを通して、翻訳者とは何かを示す作品なのね。
作中で『村上が何を言っているのか解らないところがある』って翻訳者の人たちも言ってて、「そうなんだ。君たちでも解らないんだ、やっぱり」と思ってさ、それでも訳すところがすごいんだよ。『村上を感じられれば良い』って結論でやんのね。
これもうある種の創作なんだよね。作中でも『翻訳者は世界を作るのではなく、誰かが作ったものを再構築する』ってセリフが出てくるけど、まさにそれなんだよ。
そんな翻訳の世界がのぞけて面白かったな。
芦屋の酒場で飲んでる人が、村上春樹について語るシーンもあって、まだこういうウダウダ語る人がいる酒場は存在するんだと思ったよ。
今観ておかなければもう観ることはないと思い
全く異なった文化や習慣の違いがある中でも、とりわけ村上春樹さんの文章を訳すのは難しいと思います。
この映画自体はよくわからなかったけど、好きな作品が母国語で、本来のニュアンスをそのまま感じて読めることはありがたいことだと思いました。
言葉を紡ぐこと
文章を読むことで世界中を旅することができるように、映画を見ることで世界中を旅することができる。
加えて翻訳家の世界、文章を生業としている人の世界を見ることができる。
外国人から見た日本の風景より、日本を再見することができた。外苑前と芦屋に行って確かめてみたい。
言葉を紡ぐことの大切さを教えてもらった。
でも、村上春樹の文章はそこまで単語にこだわらなくても通じると思う私は、文章家になれないのだろう。
翻訳者という運命
村上春樹は自らも翻訳家であり、創作の根本に翻訳行為を持つ稀有なクリエーターである。
その彼を世界化した翻訳者たちの存在にとりわけセンシティブだ。
自分の社会不適合性と共存するための術としての村上春樹の日本語からデンマーク語への翻訳を選んだ翻訳者の人生が、夢幻的に描かれている。
職業ではなく、運命として翻訳を選んだ人についての映画である。
翻訳という仕事の奥深さ
文学も映画も自分の人生や経験から得たものを通して何かを感じ、何かを得る。それを吸収する過程が意識的であろうが、無意識的であろうが今現在の自分を成り立たせている。従って、自分の感性で理解できないことがあれば、今の自分では足らない何ものかがあるに違いないとの思いから、そのピースを埋めようと新たな分野の文化や芸術や文学も含めた書物を追い求めることになる。
翻訳という作業は、単純な置き換えだけではまったく不十分で、その人の母国語にはない語彙や文化をどう母国語に置き換えるか、という大変な労苦の積み重ねであることがよく分かった。
つまり、翻訳された作品はその対象となる国の文化や感性、そしてその作家の独自性までもその国や作家のことを何も知らない読者に届けてくれるわけです。
村上春樹さんが自作だけでなく翻訳にも精力的に取り組んでいることの理由のひとつには、そういったこともあるのかな、と思ったりもしました。そのような理解は的外れなのかもしれませんが、翻訳に携わっておられる方への感謝の気持ちが今まで以上に湧き上がってきました。
もしこの作品を観る方で、村上春樹さんの『かえるくん、東京を救う』未読の方は、短編なので読んでからの鑑賞をお勧めします。
新潮文庫『神の子どもたちはみな踊る』所収。
カエルくんの救ったもの
先般、舞台「神の子供たちはみな踊る」を観た。
同名短編小説集の「カエルくん、東京を救う」と「蜂蜜パイ」を原作にした舞台だ。
原作は随分前に読んでいたが、改めて、僕は、「カエルくん」は「僕達」や「僕達の<良心のようなもの>」ではないかと思った。
そして、カエルくんに助けを求められる片桐も「僕達」や「僕達の<良心のようなもの>」だと思った。
「完璧な文章などない、完璧な絶望がないように」
一見、完璧な翻訳もないというところに通じそうだが、カエルくんの世界と並行して語られるこの作品を観てると、翻訳者のホルムさんや、この作品の意図は、別のところにあるように思う。
「すべてのものは移り変わる」
村上春樹さん(以下、敬称略)は、「日本人じゃなく、商業的に世界をマーケットにして小説を書いている」と揶揄する人の話を聞いたことがある。
しかし、この文章は圧倒的に日本的で、東洋的だ。
言い方は悪いが、般若心経の「色即是空 空即是色」のような世界観だ。
そして、村上春樹作品にずっと貫かれてる世界観のようにも思う。
そう、世の中には一瞬の完璧な処に止まっている<ようなもの>などないのだ。
ミミズくんは地震を想起させるアイコンのように感じられる部分もある。しかし、僕達の世界の価値観や良心を揺さぶる「何か」と言った方が良いように感じる。もしかしたら、僕達自身もミミズくんになってしまうことだって否定できない。
そして、それと相対しようとするカエルくんは「僕達」や「僕達の<良心のようなもの>」だ。
だが、それも完璧ではない。
移り変わるということもあるが、そもそも価値観自体が揺れ動いていて、完璧なものなど、もともとないのだ。
ミミズくんを内包してる可能性だってある。
だから、良心<のようなもの>と書いた。
ミミズくんと戦ったカエルくんは、かなりの傷を負った。
僕達の良心<のようなもの>も、生きていく中で、よく傷付いているように。
そして、完璧な絶望もない。
人は、多くの困難に立ち向かい、絶望の淵にあっても、幾度となく立ち上がってきた。
村上春樹がディタッチメントからコミットメントに変わったという論評に乗っかったような書き方になってしまったが、僕は村上春樹作品には、コミットメントは前から備わっていたと思う。
大学の亡くなったゼミの恩師が、村上春樹より相当年上の人だが、村上春樹作品には救われるところがあると言っていた。
何も、コミットメントは社会そのものにではなくて、そこに生きる個人にでも良いじゃないか。
村上春樹作品は、ムダに議論して窮屈になるより、読者の世界観の中で生き続ける<ようなもの>であれば良いように感じる。
僕達も、きっと僕達の世界観も完璧ではないし、でも、絶望するようなこともない。
僕達や、僕達の良心<のようなもの>は、生き続けているのだから。
カエルくんは、ちょっと曖昧なもののうえに立つ、僕達の世界観を救ったのかもしれない。
1時間と短い作品だが、結構目が離せない濃い内容の作品だったように思う。
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