トゥレップ 「海獣の子供」を探してのレビュー・感想・評価
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見終わってから考える時間こそが醍醐味
映画「海獣の子供」、原作漫画「海獣の子供」、「トゥレップ」、映画「海獣の子供」(再鑑賞)の順に観た。
以下は渾然一体となってしまったがなんとか言語化してみた感想です。
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蜂はお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土塀のなかに、
土塀は町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。
そうして、そうして、神さまは、
小ちゃな蜂のなかに。
金子みすゞ「蜂と神様」
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[トゥレップ]では各界の専門家が、その思想を語っている。
「人間という概念はなくなります。」中沢新一
「クジラには陸上哺乳類と同じような後脚の名残りがある。」田島木綿子
「息を止めて水の中に入ると、人間は陸上の哺乳類で唯一、海洋哺乳類のような身体にスイッチが入る。」二木あい
[海獣の子供]の中で「"クジラの唄"は見た風景や感情をそのままの形で伝え合って共有しているのかもしれない」と紹介される。
「思っていることの半分でも伝えられたためしがあるかい?」とも。
クジラ同士は海の中で"言語"ではなく"唄"で伝えるのだ。そして大切なことは言葉では伝えられなくとも彼らは"唄(ソング)"で可能にしているのかもと。
[海獣の子供]にはこんなシーンが有った。波打ち際で海の生き物が死んでいる。彼ら(の大半の種)は海から出ては生きていけない。そして陸上の生き物は海の中では生きていけない。(ジュゴンに育てられたという)海君が波打ち際に倒れているのを発見した琉花は海君を陸上に戻すべきなのか海中に戻すべきなのか迷ってしまう。
人間は海水のような羊水から陸上世界に押し出されて産まれてくる。
海に懐かしさを感じるのはそこに母の胎内をみているのだろうか。
地球上の生物は皆、海を祖先としており今でも海は人類が知らない "いのち" を生み出し続けている。
では、海こそが我々の大元なのかといえば「我々は星のかけらなのです」と佐治晴夫先生は教えてくれる。(残念ながら[トゥレップ]の中では語られていない)
以下は佐治先生から聞いた話のまとめだが
この地球上の物質がどうやって出来たかというと、小さな小さな光輝く粒(物凄い高熱のエネルギーで物凄い輝きだ)が大爆発を起こしたとされるビッグバン。それにより出来た宇宙空間に散らばっている塵やらガスやらが局所的に集まって渦が発生し、その渦の中に小さな石コロ程度の塊が出来、どんどん大きく密集して重力によって更に塵を集めてぶつかり合ったり破裂したりを何度も何度も繰り返し、氣の遠くなるような時間がかかり、ある渦の中心に有ったのが我々の太陽だし、もっと大きな渦は銀河だ。
元に戻って地球上の物質というのは、太陽のような恒星が寿命を迎えて超新星爆発を起こして宇宙に散らばった物質が、また太陽のような恒星になって、また爆発して、という工程を最低でも3回は繰り返して出来ているといわれている。
つまり我々の身体は星のカケラ✨から出来ている。
「DNAから銀河まで螺旋を描いている。数式で表せば r=aθ」佐治晴夫
[海獣の子供]でアングラードが「宇宙は人間と似ている」と言っているが、人間 "が" 宇宙に似ているんだ!と一人で突っ込んでいたっけ(^◇^;)
[トゥレップ]の中で様々な出演者が語るのは、『我々が孤独ではない』ということではないだろうか?
クジラの眼が「なにもかも知り尽くした賢者」のように見えるのも、動物たちが死のその時を淡々と受け入れるのも自分、自我、アートマン?この命がそんなちっぽけな存在ではなく、地球全体あるいは宇宙いっぱいの "いのち" であることを知っているからだとしたら…
[海獣の子供]の原作には銛を撃ち込まれるクジラが
『わたしはお前に興味を持ったから、
おまえの銛を受け取ったのだ。
目が合ったろう。
あのとき
心が見えたぞ。』
と語るシーンがある。
クジラの眼を覗き込んだ漁師(ジム)側の幻覚かもしれないが、そのひとつの巨大な生物の死は、新たな宇宙(いのち)を創造するための星のかけらとなったことをジムが理解した瞬間のエピソードであり、西洋人としての思考体系からアニミズムへと舵を切る切っ掛けになったのではないだろうか。
『太った豚よりも、痩せたソクラテスであれ』
という言葉がある、より正確に言うと
『満足した豚であるより、不満足な人間である方がよく、満足した愚か者であるより、不満足なソクラテスである方がよい。』
というものだ。だが、この二つの映画を観た後にこの言葉を見ると、豚より人間が高尚であるという考えがなんと不遜であることか!
クジラや牛、豚、タコ🐙でもライオンでもその生に満足/不満足なんぞという尺度を持ち込むことが薄っぺらく思えてしまう。
人間の方が遥かに宇宙からかけ離れた生き方をしているだろうに。
# 昔、平井和正の「人類ダメ小説」を読んでいた時期に感じたことと同じだ(笑)
[トゥレップ]の中で語られるインタビュー映像は「もっと見たい」「もっと知りたい」と観る側の知識欲を刺激する。
あれ?この『観たい‼️』って[海獣の子供]の中で琉花が生と死の狭間で発した言葉じゃないか!
人間という概念が無くなった後に、そこで観ている "我々" とは何者なんだろう。
[海獣の子供]で"マツリ"が始まるシーンには琉花の意識が巨大な人形の影として表現されていた。
インド神話(リグ・ヴェーダ)では原初の巨人をプルシャといい、その解体された身体から太陽や月などの此の世の全てが産まれたとされている。
同じインドの思想でも、ある学派はプルシャを精神原理と捉えたり『視るモノ』と呼んだりする。感情や思考も排した純粋に視るだけの存在のことだ。
そう、琉花は視るだけの存在としてあの世界を体験している。そして我々観客は琉花の体験を観ているのだ。
[トゥレップ]の結末は、行方不明になった"兄"が、時間と空間と因果関係に囚われたこの世界から別の宇宙にその姿を変化させた。という荒唐無稽な物語として幕を閉じる。だが、本当に荒唐無稽な物語なのか?あのインタビューは "我々" がそれを実体験とするための道標(みちしるべ)なのではないのだろうか?
[海獣の子供]の結末は、産道を通ってきた赤ん坊が海の成分と同じ羊水の世界から、言葉で意思を伝える世界に生まれ変わる。その生命の生まれ変わりの瞬間を、琉花は「命を絶つ感覚がした」と表現する。
我々が新しい生命のかけらを慈しんでいられる世界が続きますように。
嗜好の思考時間
漫画版「海獣の子供」が、個の中での開放を、時間的縛りに囚われない没個人での思念を世に発散する作業だとするなら、
それに共鳴したアニメ版 「海獣の子供」は、思念を込めた映像の中で、動くという時間的縛りと限られた空間の中での開放を試みる作業だった、とするなら、
トュレップは「海獣の子供」という枠組みを三千世界に押し広げて、「私達の今」の中で起きている「謎」と向き合おうとするノンフィクションとフィクション(というかメタフィクション)を交えて展開する、現実と向き合う「けじめ」の作業。
言葉の濁流の中で、どうしても人間としてでしか向き合えない世界の中で、思考の重ね合わせの中で、「私達」は、「私達」の枠組みを超えようとする。生命賛歌の中で、どうしても抗えない無知と対向する。なんで、どうして、どこから、どこへ、だれと、何が、何のために。。
私達は、生まれてきた世界を理解するために、何の犠牲もいとわない。。それでいて全ての未知に恐れ、おののき、足がすくむ。
こんなに悲しいと思うのは何故なんだ。その気持ちを悟られまいとするのは何故なんだ。こんなに美しいと思う未知の中で、心が溶解していくのを食止める理性。一連の海獣サーガは、私の中の純粋生命を刺激する。心が揺れ動く中で、願わくば、心の揺れ動くままに世界に包まれる生命でありますように。私達が、何がしかの哲学的解決に向けて、世界を押し広げていけますように。
マーシャルに桜は有るのかい?
科学を情緒的解釈でテツガクしてみたらこうなった。みたいな。下手すると易いファンタジー絵本になりそな内容だけど、語り部の話がやたらと面白くて、結構のめり込む。ただし中澤新一さんは除く。
漫画家氏曰く。
「海の中の描写は、山を歩く体験からの発想」
「これはこうです。と言うのでは無く、考えながら描いている」
田島木綿子氏曰く
「楽に生きたかったらクラゲになれば良い」
いや、これは良い。素晴らしく受けました。
俺は、これ好き。¥1100円だったし大満足です。
但し。知的好奇心を活性化させるほどじゃない。そこが問題…
フェイクこそ現実
五十嵐先生のファンで、予想していたものとは違いましたが、別の意味で衝撃的でした。
フェイクドキュメンタリーなのですが、出てくる学者の先生たちは現実で、途中から南の島に行くのですが、そこでの話は現実なのか、明らかにフィクションの部分はあるのですが、最後には現実とかフィクションとかの違いが些細なものに感じられ、それは「海獣の子供」の「証言」の部分を読んだ感じに似ていて、ある意味この映画は原作の映画化の特殊なアプローチなんだなと思いました。
他にあまり例のない不思議な映画でした(自分が知らないだけかもしれないけど)。
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