「「見る」という行為」燃ゆる女の肖像 オスカーノユクエさんの映画レビュー(感想・評価)
「見る」という行為
画家とモデル=見る側と見られる側という記号的な関係性は、これまでの幾度となく映画の題材として用いられてきた。対象をつぶさに観察し、その心情まで読み取って筆に伝えようとする画家の行為は、一方的な求愛にもよく似ている。そこが恋愛物語の語り部たちの想像力を刺激するのだろう。
「見る」という行為は、何にも増して禁断的で、潜在的な欲望そのものなのかもしれない。
思えば、日常生活において誰かのことを「見る」とは、とても限定された条件のもとで行われている。一定の秒数以上ずっと相手のことを見続ければ、それはすぐさま特別な感情や事情に紐付けられてしまう。
映画の舞台となった18世紀のフランスでは、女性同士がお互いを「見る」行為は、いま以上に社会的な束縛を課せられていたはずだ。だからこそ2人の行為はスリリングで、ゆえに絵画のように美しい輝きを放つ。
また、この映画はさらに、「見られる」側の心情にも踏み込んでいく。画家により一方的な求愛を受ける側は、どんな気持ちでこれを受け入れるのか。劇中、ギリシア神話のオルフェとユリディスの物語を引用し、「見られる」側の心情に独自の解釈を忍ばせるあたりに、この映画のオリジナリティがある。
こうした伏線をこれ以上ないかたちで回収するラストシーンがとにかく素晴らしい。われわれ観客もまた「見る」側となるのだが、それは、スクリーンの向こう側から覗く視線とは全く別物の、主人公と一体化した主観の視線にほかならない。その視線でわれわれは、「見られる」側の心情に寄り添い、禁断の愉悦に身を浸すことを許されるのだ。
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