「愛の代わりに憎悪を教える宗教指導者は、実に罪深い」その手に触れるまで 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
愛の代わりに憎悪を教える宗教指導者は、実に罪深い
映画としてはそれほど面白い作品とは言えないが、自爆テロをする子供や女性がどのように作られるのか、そのヒントがあった気がする。邦題の「その手に触れるまで」は作品の内容と乖離していて、寧ろ原題の「Le jeune Ahmed」を直訳した「若いアメッド」のほうが解りやすかった。
人が自殺するためには、よほどの絶望がなければならない。明日に何の期待も希望もないとき、人は躊躇なく自殺する。期待や希望は大袈裟なものでなくていい。例えば今日買った靴を明日履くのはひとつの期待であり希望だ。太宰治の「晩年」の最初の短編「葉」の冒頭は次のようにはじまる。
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
ことほどさように、小さな理由で人は死なないものである。太宰の場合は着物をもらうことやそれに類いすることがなくなり、小説を書く意欲もなくなったから自殺したのだ。心に何も残っていなければ、恐怖も忘れるだろう。
しかし本作品の主人公アメッドは自殺しようと思っていた訳ではない。イスラム教には自殺を禁じる教えもある。にわか狂信者のアメッドに必要なのはジハードで死ぬことなのだ。ジハードで死んだ者を死んだと言ってはいけないと教えられるシーンもあり、アメッドはますます勇気づけられる。ジハードの相手は異教徒である。コーランから離れ、歌などでアラビア語を教えようとする教師。それはイスラムの教えから子どもたちを離そうとする悪辣な意図である。どうしてもやろうとするなら、もはや殺すしかない。
失敗して捕まっても、アメッドは崇高な使命を忘れない。従順なフリをしつつ、いつかジハードを実行する機会を狙う。できればジハードの際に死んで、信仰を全うしたいのかもしれない。アメッドの頭の中では、戦前の日本のように散華(さんげ)などという言葉で死を美化しているのだ。自分が生きた証は死そのものにある。母も兄弟も、誉(ほまれ)ある死を喜んでほしい。
狂信者は情報をシャットアウトする。信仰に反するものは何も見えず、何も聞こえない。異教徒は無価値であり、無人格であり、殺しても差し支えない。スマホを持っていても、そこから入ってくる情報に心を動かされることはないのだ。
葬式仏教に結婚式クリスチャンまたは結婚式神道という、極めていい加減に宗教と関わり合っている日本人には理解しづらい精神構造であるが、キリスト教文化が根づいたヨーロッパでは、イスラム教への転向もそれほど困難ではないのだろう。神は既にいるのだから、英語のGod、フランス語のDieuをアッラーに変えればいいだけだ。日本では仏教に神は存在せず、神道は八百万の神で森羅万象そのものが神だから、一神教を感性として理解するのは難しい。
宗教に依存しなくても生きていける日本人が世界的な長寿国となったのは、戒律による不自由がなく、健康や衛生といったどちらかと言えば科学的な価値観で生きてこれたからかもしれない。
グローバリズムは価値観の崩壊と新たな価値観の創生につながり、狭量で不自由な宗教的価値観からすべての人々が解放される未来がくるのかもしれないが、コロナ禍がグローバル化を妨害している面もあり、今後の世界はどうなるかわからない。
例えば暴走族が特攻服のようなものを着て、軍隊式の組織を作って自己アピールをしているのを見て、それに憧れる少年少女もいるかも知れない。誰でもまずは形から入る。暴走族の中身がないことに気付くのはそれほどの長い時間を必要としないが、イスラム教の衣服や生活態度や祈りなどに憧れてしまった場合、宗教には経典があってどこまでものめり込んでしまう。
本作品の主人公を見ていて、自爆テロをする子供や女性がこのように育っていくのだと、うっすらとわかった気がした。愛の代わりに憎悪を教える宗教指導者は、実に罪深い。