「続く不確かな瞬間」クリムト エゴン・シーレとウィーン黄金時代 ワンコさんの映画レビュー(感想・評価)
続く不確かな瞬間
封建と自由、伝統と前衛、様式と内面、道徳と退廃、秩序とカオス…。
当時のウィーンは、第一次世界大戦に向かうなか、従来の価値観が崩壊しつつあり、新たな価値観と交錯し、混沌とした状況だったのだろう。
僕は、クリムトの作品ファム・ファタルに代表される恍惚とした女性の表情には死の匂いを感じる。エクスタシーの後の恍惚感はあまりにも無防備で、それは死にさえも無防備のように思えるからだろうか。或いは、まるで快楽を目的にした薬物でもやっているかのような恍惚感のようにも見えるからだろうか。
一方、シーレの作品には、死を前にしても、それに抗うような生が垣間見れるような気がする。痩せていても目はギラつき、身体の芯はしっかりしているように描かれているからだろうか。性器を隠すことなく大胆に描いてるからだろうか。性器は生命をつなぐ象徴ではないのか。
いずれにしても、こうした一見矛盾とも捉えられるような揺らぎが、僕の目を釘付けにする。
話は変わるが、こうした混沌としたウィーンで哲学者ウィトゲンシュタインが育まれたことにも、個人的には何となく納得がいくような気がする。
第二次世界大戦後のウィーンを舞台にした「第三の男」という古い映画がある。
このクリムトとシーレの映画の終盤にチラッと映るウィーンの遊園地の観覧車の前で撮られた場面は、おそらく世界で最も知られた名台詞で有名だ。しかも、これは、オーソン・ウェルズのアドリブだったから更に驚きだ。
また、この台詞は、この時代のウィーンと芸術の関係を想起させる。以下に、記憶を辿りながら、意訳も交えて紹介したい。
「イタリアは、戦争や恐怖など30年に及ぶボルジア家圧政の下、ミケランジェロやダビンチ、そして、ルネサンスを生み出した。スイスはどうだ。500年の民主主義と平和の歴史は、一体何を創り出したのか?鳩時計じゃないか。」
クリムトやシーレの時代も、混沌や時代の不条理に抗う姿勢が、新たな芸術を育んだのかもしれない。
或いは、不条理を受け入れることによって、自分の内面を芸術として昇華させたのだろうか。
いずれにしても、時代と芸術は、皮肉な関係の上に成り立っているかのようだ。
そして…、このウィーンの不確かな瞬間は、もしかしたら現代にも繋がっていて、僕たちの時代を揺さぶっているのかもしれない。
しかし、我々は、溢れんばかりの情報に触れ、価値のある芸術を見出したり、育んだり出来ているだろうか。
豊かになり過ぎて、拝金的なアプローチに終始してはいないだろうか。
価値のある芸術とは一体何なのだろうか。
ピカソが守り抜こうとしたのは何か。
バンクシーは、何故ガザにホテルを作ったのか。
そんなことを色々と考えさせられる作品だった。
最後に余談というか、原題の副題に、エロスとプシュケとある。これは、有名なギリシャ神話のはずだが…、愛と魂という意味と掛け合わせて考えろというメッセージなのだろうか。パンフを買わないと分からないことなのだろうか…。