「見る目、聞く耳、それがあれば大丈夫。」わたしは光をにぎっている 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
見る目、聞く耳、それがあれば大丈夫。
中川監督の映画は、つねに迷える若者が登場する。それは、躍起になって成功しようとする挑戦者ではなくて、今の自分の立ち位置のたわみに不安を覚えながらも、靄の張った行く先に戸惑い立ち往生している若者たちだ。この映画にも、そんな彼女が登場する。けして、晴れやかな成長を見せるわけでもない。だけど、周りにいる人には、あれ?こいつ何か変わったぞ?って気付くちょっとした変化はある。そんな小さなステップを一つずつ上って、人は人生を生きていく。そんな少しの時間の過程を、美しい映像とフレッシュな音楽で彩る上手さ。毎度見事な監督の手腕だった。
ようするに、自分の人生は自分自身のもの。
流されず、流すことなく。
目の前にあるもの、人、時間、、しっかりと見て、聞いて、それが何であるか自分の体の中に落とし込む。すると、自分にとって大事なものものかどうか自然とわかってくる。その正体がぼやけていても、なにかしら「これは大事なもの」ってことをなんとなく感じてくる。真面目に真剣に、とまで堅苦しくなく、ただよく見て、よく聞く。自分のために。
そのとき自分の握っている拳の中には、光がある。まちがいなくある。ただ、それは握っていないとこぼれてしまうもので、しっかりと握っていないとどこかに行ってしまう。もしかして、実は何もないかも知れない。こうして堅く握りしめた拳骨は、ただの石かも知れない。だけど、この中には光がある。自分でつかもうとしている未来が。今見てしまったら霧散してしまうものが。だから今は、歯を食いしばって、光をにぎっている自分を信じて、生きていこう。離すなよ、光を。
そう言われている気がして。そのことに20代で気付いていればと後悔しながら、でも今だからこそそのことを噛み締められるのだと思い直してみて。
参考までに。
山村暮鳥「自分は光をにぎっている」(詩集「梢の巣にて」)
自分は光をにぎっている
いまもいまとてにぎっている
而(しか)もをりをりは考へる
此の掌(てのひら)をあけてみたら
からっぽではあるまいか
からっぽであったらどうしよう
けれど自分はにぎっている
いよいよしっかり握るのだ
あんな烈しい暴風(あらし)の中で
掴んだひかりだ
はなすものか
どんなことがあっても
おゝ石になれ、拳
此の生きのくるしみ
くるしければくるしいほど
自分は光をにぎりしめる