「すれ違い小咄」ピアッシング いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
すれ違い小咄
村上龍のあの独特な世界観と毒々しい描写に魅了された青年時代、特に『愛と幻想のファシズム』は、日本にもこういう全体主義的流れが産まれる過程みたいなものを、まるで歴史小説のような史実の如くフィクションとして展開していくスペクタクルに恐怖と熱情を叩き付けられた思いを抱いたものだ。但し、今作の原作は未読で、オチも同様かは未確認。アンジャッシュのコント的ギミックは原作に近いらしいとのネット情報だが、落語の小咄的オチは分らない。或る意味、アメリカンジョークにも通ずるところもあるかも。というのも、映像の色彩設計や場面二分割、セット内のインテリア等、70年代風のアメリカのTVドラマを想起させるような造りに仕上がっている。現在ではないことはスマホが出てこないことからも明らかだ。自傷行為、殺人欲求を“ピアッシング”というキーワードに一括りにした洗練さとシンプルも原作者に寄り添った造りであろう。原作者がよく自書で登場させる奇天烈なクリーチャーも幻想パートで登場させているし、そういう細かいが全方位型のエンタメを端折らすに混入させている演出も原作リスペクトを窺える。思うに、もっとSM要素やトラウマをクローズアップさせ、過剰にデコレートすることが定石かと思うが、前述の通り、今作の喜劇性をフューチャーした面にキチンと向き合っているところが興味深い。あれだけの凶器で体に傷をつけられても、お互いそれ程痛みを表現しない所など、漫画的な構成もベースとして見受けられるし、多分、制作陣はこれもアニメと同じ、ジャパンクールの一環として捉えているのかもしれないと勘ぐる程である。ニプルピアスは相当痛いし、血もかなり出る。まぁ、あくまでもフィクションで、痛みを前面に出すと興醒めだろうし、こういう形での落ち着きどころなのであろう。作品中やエンドロール中も、強調されている高層ビルの無数の窓ガラスが何を意味しているのか、そのメタファーは読み解けなかったので、どなたかご教示頂けるとありがたいと思う今日この頃である。