「本当に強い人は武術など必要としない」イップ・マン 完結 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
本当に強い人は武術など必要としない
実は映画の前に一幕あった。父親と7〜8歳くらいの女の子が二人でこのクンフー映画を観に来ていて、女の子の座高が低くて前の椅子の背もたれが邪魔になってスクリーンが見えない。父親は子供用のクッションがないか係員に尋ねていたが、どうやらなかったらしい。係員は謝っていたが、ここは謝罪よりも対処だろうと、傍で見ているこちらが憤慨しそうになった。
女の子は椅子の上に正座してみたりしたが上手くいかないようで、父親が前の席に行こうかと促すと、無断で席を移るのは駄目だよと女の子が言う。なんていい子なんだとこちらが勝手に感動しているところへ、別の係員がクッションを2つ持ってきた。女の子は2つとも使って、高さが合うことを確かめて喜んでいた。
と、そこへ更に別の係員が来て、一番見やすいB列が空いているのを確認しましたのでよろしければどうぞお移りくださいと言う。父娘は席を移動しクッションを2つ使って楽しく鑑賞できたようだ。めでたしめでたし。
映画とは無関係ではあるが、たまにはこういうエピソードも紹介したい。否定的な世の中で、たまに肯定的な出来事を見かけるとほっこりするものだ。
さて、本作品はクンフー映画である。ブルース・リーがインタビューで自身の武術のことをクンフーと発音していた映像を見たことがあるので、ここではカンフーではなくクンフーと表記する。本作品はブルース・リーの師匠に当たるイップ・マンが、アメリカに色濃く残る人種差別やハラスメントに対峙して、クンフーを通じて戦う映画である。
様々な種類のある中国武術だが、本作品に見られるように太極拳は一目置かれているようだ。というよりも、太極拳は国民の生活に溶け込んでいるから、これを疎かにすれば中国国民から総スカンを食らうのは必至だ。だからそれなりの重きを置かれた扱いになったのだろう。もうひとつ有名な少林拳は本作品で紹介されていたのか記憶に残っていない。
どの武術が最も強いのかという議論は中学生の男子が好きそうだが、実際は個々の武術家の適性や能力によって左右されるから、どれが一番強いかは試合などでは決められない。そして武術は人間が身につけるものだから個性を抜きにしては評価できず、人間には好不調の波もあるから、数学的に強さを算出することも出来ない。偶然の要素も多分にある。どの武術が強いかを決めることは実際的にも理論的にも不可能なのである。
現代は武器が発達していて、拳銃やライフル、バズーカ砲から戦闘機、空母、潜水艦、果ては核兵器や化学兵器に至るまで、膨大なヒトとモノとカネが関与してせっせと作り続けられている。戦争や紛争といった殺し合いにおいては武術の出番はない。
なのに何故人は武術を習得しようとするのか。それは弱いからだ。自分が弱いことを知ってるから強くなりたいと願う。武術を習うと暴力に対する対応ができる。日常的に受けるかもしれない暴力を恐れなくなる。しかしそれがいいことかというと、そうでもない。
武術は師匠から弟子へ受け継がれるが、このとき生じる師弟関係は兄弟子と弟弟子、弟弟子と新弟子などのように上下関係のヒエラルキーにつながっていく。精神性で言えばほぼ封建主義である。封建主義は人権をスポイルする。これがよくないことのひとつ。
もうひとつは、武術を習熟して暴力的に人を圧倒できるようになると、それによって他人を支配しようとする人間がいるということだ。暴力団や半グレといった不良たちはそれでカタギから財産や労力を脅し取って凌ぎにしている。そういう連中の中には昨春の桜を見る会に参加している者もいた。武器、武術、暴力、国家主義、安倍政権は同じ箱の中に入っている。同類項なのだ。
本当に強い人は武術など必要としない。武器もいらない。必要なのは恐怖や不安を克服した強い心だけだ。暴力に屈しない、欲に溺れない。金も地位も名誉も住むところも食べ物さえもいらない。勿論そんな人は滅多にいない。歴史上でも数えるほどしかいないだろう。彼らはアウトサイダーであり歴史を作ることはない。人類の歴史は人殺しの歴史だからだ。
稀にではあるが、武術の鍛錬で精神も鍛錬できる人がいる。それは武術で自分に打ち勝とうとする人である。本作品の主人公イップ・マンがそういう人かどうかは不明だが、武術で身につけた礼儀と優しさは感じられる。偉そうにしないし口調は丁寧で、ありがとうを頻繁に口にする。
「武術家として不公平とは戦わなければならない」というイップ・マンの台詞のとおりならば、武術の前に人は平等ということになる。勝つために戦うのではなく守るために戦うのだ。本作品には胸のすくシーンがいくつかあり、暴力や圧政に対して身をかがめる必要はないという武術家たちの覚悟も伝わる。いろいろな武術が、自分自身の弱さを克服して寛容と優しさを身につけるための鍛錬であるという概念に収斂されていくといいのだが。