「成功したとは到底言えない終盤の展開」ドラゴンクエスト ユア・ストーリー アラカンさんの映画レビュー(感想・評価)
成功したとは到底言えない終盤の展開
ドラゴンクエストV 天空の花嫁は、1992年に発売されたスーパーファミコン用ロールプレイングゲーム(RPG)であった。私は1986年発売の1作目からのファンで、すっかり成人してからこのゲームを始めた世代である。特にこの5作目は、3世代に亘る親子の物語を柱にした画期的な名作であった。個人的に第一子が生まれた翌年のことであったため、その物語構成には強く引き込まれるものがあった。
映画で最初に気になったのは、モンスターのデザインが原作に忠実なのに、人間のキャラクターのデザインが鳥山明のものと非常にかけ離れていることで、ビアンカもフローラもそれほど可愛いとは思えないことであった。何故あのようなキャラデザにしてしまったのか、真意が計りかねた。また、本編中で登場するのがフローラの方が先になっていたりして、やや強引にフローラ推しになっているところも気になった。
この映画は、ゲームの大筋を変えることなく、昔からのファンの気持ちに寄り添った作りになっていると感じられて、話の終盤までは楽しんで見ることができた。もっとも、子供時代の話が昔のゲーム画面で語られるなど、物足りない部分も散見された。特に子供時代のレヌール城の話は、ゲームをやっていない者には全く説明不足で、これでは後の展開に支障を来すのではと危ぶまれた。
その不安は的中したと思うが、もっと物凄い展開が待っていたので、比重がかなり軽いものになってしまった。この映画の終盤の展開には、非常に驚かされた。あたかも、ホラー映画を見に行ったら、ラスボスが突然「化け物なんて現実には存在しない」と言い出したような違和感を感じた。これは見る者への裏切りとしか思えない展開で、制作側としては、ゲームのストーリーをなぞるだけでは面白くないだろうと考えての新機軸なのだろうが、これによってこの映画の価値が上がったとは到底思えない。
鈴木光司が「リング」と「らせん」の後に発表した「ループ」において、それまでの世界観をぶち壊しにするような展開にして、シリーズ全体を無価値なものにしてしまったような、はたまたトマス・ハリスが「ハンニバル」においてレクター博士とスターリング捜査官との関係を台無しにしてしまったような、取り返しのつかない「やっちまった感」を、この映画で見せられるとは全く予想もしないことであった。
ミルドラースが語ったあの言葉は、成人してからゲームを始めた私などを真っ向から否定する言葉であり、制作側としては主人公の反論を導くための誘導のつもりだったのだろうが、観客の虎の尾を踏んでしまっただけのような気がする。この映画を低く評価する意見の大半は、終盤の「やっちまった」展開と、ミルドラースのあの言葉に反発している意見が大半であるのを見れば、到底褒められた演出でなかったことは明白であろう。そもそも、ゲーマーたちにとって一番怖いのはウィルスなどではなく、「いつまでもゲームばかりして!」と強制的に電源を切ったり、ゲーム機を踏み潰すといった、高嶋ちさ子のような無理解な母親の方だろう。
褒めるべきところも多々あった。ゲマのデザインを、私が個人的にもっとも嫌っている人物と瓜二つに作ってくれたことや、ミルドラースの声優を知的な井浦新に演じさせたことや、劇中で使用した音楽を「V」に限定せず、「Ⅲ」や「VI」からも採用したことなどである。特にエンディングの音楽は、「Ⅲ」の「そして伝説へ」しかあり得ないという思いを汲んでくれたところには感謝したい。また、ゲームでは台詞で語られただけだった伝説の勇者が天空の剣を抜くシーンは、非常に感動的だった。
それだけに、観客の気持ちに水を差すどころか、観客の頭の上から水をかけるようなあの終盤の展開は、残念でならなかった。BD や DVD を出すなら、ディレクターズカット版ならぬオーディエンスカット版として、ゲマが倒されて全てが終わるというバージョンを収録してほしい!
(映像5+脚本1+役者3+音楽5+演出2)×4= 64 点