よこがおのレビュー・感想・評価
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復讐劇は期待しないほうがいい
監督が筒井真理子に惚れ込んでいるのはよくわかった。彼女を見たくて撮りたくてたまらないのだ。鑑賞者がそれに付き合えるかどうか、という映画。
池松壮亮、頑張ったな。
時系列がバラバラなので集中してみないといけないが、集中できるほど内容は面白くない。
いきなり過去と現在と夢が切り替わる。筒井真理子の髪の毛の長さや色、または部屋のしつらえで判断するしかない。
海で青い髪の毛のときがたぶん最期なんだろう。
ラスト甥っ子を迎えに行ってからの行動が冒頭に繋がるようだ。
監督は自画自賛してそう。
薄気味悪い地雷映画だった。
あり得ない話。
この主人公の女性が一番世間体を気にしている。
それでいて、昔の空気から離れられない。
そんな事あり得ない。
まさかそれで、性的マイノリティまでも表現しようとする。
欲張り過ぎるストーリー展開。
つまり、状況設定が物凄く曖昧で極端。
つまり、自ら作った不幸をに翻弄される。
く~るJAPANの定石的で、使い古された手法。
専門の勉強までして、もう一度、勉強した方が良いと思うが。もっとも、才能0に幾ら掛けても0だと思うが。
バカバカしい男目線なお話。
後、30分もあって結末が分かるくらい見るに耐えないお話。
振り返れば、このロケ地が我が母校ある場所。そこを「この辺は危ないのよ」とのたまう。状況判断と分析ができない稚拙過ぎる。
それでリベンジポル●はなかろう。
で、甥っ子はどうなった?
ヘェ~世界に注目されし演出家?とは。
複雑で裏表のある主人公を巧みに演じ分けた筒井真理子。
一言では言い現せない奇妙で巧妙に仕組まれた脚本だった。
(監督と脚本は深田晃司)
《無実の加害者へ転落した女性》
《横顔・・・反対側の顔や姿は見えない・・・裏の顔》
そして、
《ある女のささやかな復讐???》
粗筋
訪問看護師の白川市子(筒井真理子)は家族や患者から信頼される
善良な女性である。
仕事として通っていた大石家の患者の孫にあたる中学生のサキが、
ある日突然行方不明になる。
サキは10日後に帰ってくる。
特に性的な被害はなかった模様だ。
しかしこの事件は市子の人生を180度変えてしまうのだ。
何故ならサキを誘拐したのが市子の妹の息子・辰男だったから・・・。
そしてこの映画でもっとも大事なキーパーソンは、
大石家のサキの姉の基子(市川実日子)です。
基子は市子と親しいことを逆手に取って、
マスコミに次のようなリークする。
1、誘拐・・実は市子が甥の辰男の手引きをしていた・・と電話で仄めかす
2、市子は幼い辰男に性的な悪戯をした過去がある・・・
(この2つは誇張はしてあるが、根も歯もない嘘ではないのです)
マスコミの注目を集めた市子の生活は崩壊する。
☆仕事を失う
☆結婚が破談になる
☆居場所を去らねばならなくなる
《市子の復讐》
本当に、私は市子の逆側のよこがおが信じられない、のです。
市子の復讐に利用される、
第3のキーパーソン。
美容師で、基子の恋人の米田(池松壮亮)の存在。
リサと名乗る市子は米田に客として接近する。
市子のアパートからは米田の部屋が丸見え(!?)
基子が米田の部屋に出入りしているのを、凝視する市子。
そして米田を誘惑して、寝とる・・・のだが、
米田は、
「基子とはとっくに別れた」と告げる。
「好きな人が出来たから・・・」
それが理由だった。
ここで愕然とするのだが、
基子は市子に愛情を強く持っていた・・・
基子の好きな人、それは市子。
(市子の結婚を知らされて、不機嫌になる基子)
そこから基子の歪んだ市子への嫌がらせが始まった。
そして市子の生活を崩壊させた。
それにしても筒井真理子の演じる白川市子は、
謎、でした。
ヘルパーとしての誠実な市子。
結婚する予定だった訪問医師(吹越満)の息子への優しさ。
それらの姿と米田を誘惑する時の洋服とバック、靴。
別人の様にブランド品を身に付けて、お金持ちのセレブ。
有閑マダムとして米田と釣り合う熟年の魅力が溢れる。
(この市子の裏表の演じ分けの凄み)
筒井真理子は近年その存在感が注目されている。
舞台(鴻上尚史の第三舞台)で長年培われた女優。
品の良い奥様から悪女まで幅広い役をこなす。
この映画は最後まで観ていくと、
やっぱりこの女・白川市子・・・って、得体が知れなくて、
一筋縄ではいかない女。
ヘルパーをしている善良さ、
男(そして基子)を狂わせる魔性の女、
その二面性を表現する説得力には脱帽する。
しかし映画は時系列が辻褄が合わないところもあり、
白川市子に同感する事も出来ず消化不良気味。
凄い感動には至らなかった。
しかし心理劇としては優れている。
市子の犬の吠え声、
四つん這いになって、クンクン嗅ぎ回るシーン、
市子の狂気の片鱗を見た。
タイトルなし(ネタバレ)
傑作と言われているけど、1度の鑑賞では理解できなかった…というか時系列が全く分からなくて迷子になってしまった。
犬になりにおいを嗅ぐシーンが強烈すぎて「ちょっと無理かも」と思ってしまい、そこからしばらく真面目に観なかったのもあり…
ただ俳優陣みんな素晴らしいと思うし、もう1度ちゃんと観ます。
たしかな独自性
筒井真理子も池松壮亮も吹越満も暗い。この布陣だけなら気が滅入っていた。が、市川実日子がパッと明るい。明るいキャラクターではないのに、垢抜けた顔と伸びすぎの佇まいに、どこか非現実を持っている。助けられた。
映画はサスペンスフルに展開する。面白い。もっとアート系な寓意を予想していた。不遜な言い草だが、だいぶうまくなった──と感じた。
何気ない日常会話を重ねていく。
是枝監督や河瀬監督に何気ない日常会話を見ることがある。
深田監督にもそれがある。
ただ、いつでも何かが起こりそうな不安を孕んでいる。
なにかの言葉によって、闇が掘り起こされ、日常がいっぺんに崩れ落ちる──ような気配が、常に漂っている。
時系列を錯綜させた編集も、それに拍車をかける。
そもそも、半尺過ぎてさえ、市子がいったい何を秘めていて、何をどうしたいのか、解らない。それでも、不安を感じないではいられない。
ほとりでも淵でも見えなかったが、この感じは確かに独自性があると思った。
ただしである。
いったん基子のテレビ発言が晒されると、様相が壊れる。
この発言が、内的葛藤を抱えていた基子の気まぐれにより、16円と言ったにもかかわらず、10億円と捉えられてしまった──みたいな、とんでもない針小棒大となり、元来、生まれるはずもなかった悲劇がはじまる。
わたしの勘違いでなければ、この映画は、事件と甥のズボンを下ろしたという日常会話を伏線させ、モラトリアムな基子に、甥のちんちんにいたずらをした──と報道されてしまった叔母さんが、それを期に社会から爪弾きにされる話である。
火の無い所に煙は立たぬ──とは言うが、悲劇がないところに力技で悲劇をつくり出している。
しかも息子じゃなくて、甥だよね?なんか勘違いしているのかな。甥のわいせつに、しかも未遂に、なぜ叔母が、芸能人の不倫かと思えるほど多勢の報道から追いかけ回されるのか──解らない。
筋だけならコメディといって差し支えない──と思った。
父の秘密(2012)や母という名の女(2017)のミシェルフランコ監督が、向こうのインタビューで深田監督との作風の類似性を指摘されている記事を読んだことがある。
確かに似ている。
何が似ているのかというと、元来、おこりようのなかった事故/事件/悲劇が、魔が差した人の行動/言動によって、おこり、そこへ主人公が呑まれてしまうドラマ展開が似ている。
事故によらなければ悲劇がおこらない、それが20世紀である──と言ったのは大岡昇平ではなかっただろうか。
この方法論は、うまく構築しなければ、まさに火のないところに煙を立てる作業である。
つまり市子が陥ってしまった悲劇に対して、あたかも打球が後ろへ飛んでいったバッターを揶揄するがごとく、むしろ、そっちへ打つほうが難しそうだわ──と言いたくなってしまう。なにを好き好んで、そんなところへ嵌まっているんですか?と尋ねたくなってしまう。
つまりコメディ。
だが閉じるまでのあいだに悲劇は中和される。押し入れでの情交を回収し、復讐は水泡に帰し、丘陵にテツandトモの片割れのようなジャージ姿の基子が仁王立ちしている幻影に過呼吸になったりもするが、しずかな湖畔で過去を洗い流す。時間はつらい思いを緩和させる。ふたたび安寧が戻ったかのように見えたとき、宿敵が轢いてくれと言わんばかりに道路にまろびでる。
一応、笑おうか迷った。
妙。じわりと変。どんより曇り空、絶対に晴天を撮らない。
因みにこれは上げの評価です。
現実を受容する美しさ
傑作だと思う。
ラスト、市川実日子との対峙において復讐を果たさない主人公、虚しく鳴らされるだけのクラクション...このケリの付け方に、スッキリしようのない現実を受け入れるしかない主人公の強さを見た。
頭で考えれば(恐らく)レズビアンの市川実日子の男を寝取った所で復讐になんてなりようがない(これは相手がレズビアンだと気づいてなかっただけとも取れるが)。だけどこのようなどう捉えども馬鹿げた復讐に走るしかないという所に社会から弾き出された主人公の切実さがある。そして、明確に描かれてはいないので仮説にはなるが、市川実日子が主人公の意図を知り気持ちのない彼氏との関係をあらかじめ精算しておいたのだとすると、彼女はこの時点においては悪意のない悪から相当な悪に変貌していたとも言えるのだけど、そのヒールの顔を画面に出さない所に監督のセンスを感じる。随所に挿入されるイメージショットも相まって、映画全体が顔の見えない相手に支配された悪夢のようにも見えてくる。シンプルなプロットの中に唐突に挿入された感のある夢やイメージショットはこの点において映画の狙いに有機的に機能している。
この映画自体が市子という人が観ている悪夢や走馬灯を観客が共有していると観ることもできる構造になっている。
このように深田晃司監督が「意識的に何を描いたか」は非常に重要だが、「意識的に何を描かなかったか」も同じウェイトで重要だ。
列挙するなら、どうして池松壮亮演じる和道がデートにやってきたのか、市子と寝たのか、そのことを基子が知っていたのか。また、基子が厳密にはどのような気持ちで市子を裏切ったのかやその表情など、意図的に描かなかった余白がかなりあるように思われる。
それらを描かないことにより、現実や過去の曖昧さが立ち上がってくる。1人の人間がトラブルに巻き込まれる時に、「どこで誰がどんな悪意を働かせたのか」が分かることの方が稀なのであって、人間は過去のこと、現在の事なんて厳密には分かりようがない。これは深田晃司作品に通底するテーマのように思われる。
この映画の主題は悪夢であり現実そのものである。日本を覆うある種の現実、つまり異物と思しき物はバッシングして切り離すこの社会そのものを強く打つ映画であり社会派サスペンスとしても一級品。ラストの美しさはその中で苦しみ続けるしかない事を受け入れた人間の孤独である。
突然奪われる幸せ
介護の仕事をし真面目に働く女性の主人公に(筒井真理子)
突然 襲い掛かる不幸。
自分は何もしていないのに巻き込まれ
仕事を辞め 恋人とも別れ
「私たちは被害者の方の支援をしているのです」と
頼みの綱にも見捨てられる
それもある人物がいたせいで このような
泥沼な人生に落ちていくのだ
どんなに自分が真面目に生きていても
他者によって人生が奪われることもあるのだなと
恐ろしさを感じた作品だ
しかし彼女は逞しかった
渦中の中でもしっかりと生きていく様は
観ていて心を打たれた
特にある人を迎えに行くシーンには
懐の深さに彼女をぎゅっと抱きしめたくなった
復讐のシーンの顛末もアッハッハッハと笑うシーンは
仕返しなのに滑稽でかわいくもみえてしまった
池松くんは毎度おばさんキラー?役で登場ですね
いつもいい味出していて私は大好きです
ストーカーのようなよいこちゃんのような
市川実日子が怖かった
そしてラスト
うわあ!ぎゃあ!どうする?
私だったらどうするか・・・
ラストまで目が離せません
見えぬから信じたい“よこがお”
深田晃司監督は日本のミヒャエル・ハネケになれるような存在かもしれない。
『淵に立つ』に続き、筒井真理子を主演に迎えて放つ、不条理サスペンス・ドラマ。
深田監督は『淵に立つ』でもそうだが、サスペンスチックな事件そのものより、事件の後の理不尽さや悲劇性に視点を向けている。
正直、序盤はタルかった。
訪問看護師の市子は、訪問先で福祉介護士を目指す基子の勉強を見るなど周囲の信頼厚かった。特に基子はただ慕うだけではない特別な感情を…。
ある日、基子の妹サキが失踪。その衝撃の犯人。その時を境に、市子の平穏な日常が崩壊していく…。
衝撃の犯人は、市子の甥。
ある時たった一度顔を合わせただけ。
動機も何もかも分からない。
何故、甥が…? どうして…?
被害者は程なく無事発見され、事件は解決するも、市子の心は…。
被害者はお世話になっている訪問先の娘。
言うべきか、否か。
唯一、基子だけは事情を知る。決して市子を責めたりせず、今まで通り交流を保つ。
が、ずっと隠し通せる事ではなく…。
訪問先からクビ、勤務先を辞職、近々縁あって結婚する予定だったが破棄、クソに集るハエの如く執拗に付きまとうマスコミ、過去の些細な悪戯の過剰報道、さらには事件への関与の疑い…。
残酷なまでに転落、破滅。
でも何よりショックだったのは、あんなに慕われ、心を許していた人物の裏切りだろう。
自分たちの家族がこんなに苦しんだのに、幸せになろうとしている。許せない気持ちは分かる。
無論、一番悪いのは犯人。加害者家族に罪は無い。
それは分かっているけど、それとは反する言動を取ってしまうのが、人。
自分がもしそういう立場に置かれたらどうなるか、分からない。
被害者側だったら…?
加害者側だったら…?
世の理不尽さに虐げられて、市子は…。
筒井真理子が難役を見事に名演で体現。
存在感、複雑さ、弱さ脆さ、何処となく感じさせる狂気やエロス…どれを取っても文句ナシ! 彼女の演技を無視した日本バカデミーこそ袋叩きに遭え!
市川実日子も印象的な助演。事件前と後での市子へ向ける感情の変化や精神のバランスを見事に表している。彼女の演技を無視した日本バカデミーは…以下、同文。
深田監督の演出と脚本は先読み出来ず、ミステリーとは違った意味で展開から目が離せない。
『淵に立つ』に続く上質作。
…しかし、全体的にちと分かり難く、人によっては物足りなさを感じるかもしれない。
解説では“リサ”と名乗り復讐を企てる…とあるが、この復讐が些細と言うか、基子の恋人と寝てその淫らな写メを送るくらいで、それほど強烈な復讐劇ではなく、ハードなリベンジ・サスペンスを期待すると肩透かし。
全体的に解釈も人それぞれ。
かく言う自分は、加害者側の第2の人生の歩みと見た。
市子は出所してきた甥の身柄を引き受ける。(母親は自ら命を絶ったかすでに亡く…)
これからも世の理不尽なバッシングを浴び続けるだろう。
が、この甥を更正させ、真っ当な人生を歩ませる事こそ、これからの自分の人生。
甥が被害者側に謝罪したいと言う。訪ねるが、空き家に…。
その帰り道…。
市子は基子を目撃する。
ハンドルに手が掛かり、衝動に駆られるが、思い留まる。
基子は介護士の卵となっていた。
かつての交流や関係は決して無駄ではなかった。
タイトルの“よこがお”とは、見えない人のもう一つの半身の事を意味するという。
確かに人の“よこがお”は見えない。
相手が自分の事をどう思っているか。
フレンドリーな“よこがお”の反面はそれとは真逆の…。
人の卑しい“よこがお”ばかりではなく、善良な“よこがお”こそ信じたい…。
そう思わせてくれるラストであった。
紙一重
おもしろかったです。
淵に立つがすばらしかったので、観ました。
淵に立つは非の打ちどころのない完璧な仕上がりでしたが、それに比べるとこの作品は泥くささがありクセ強めな感じがしました。
この監督は嫉妬や人の幸せを妬んだり、やっかんだり、人間の煩悩や愛憎を鮮やかに描きますね。
フタをしてなかったことにしたいことを細かにじわじわ攻めてきてなかなかに闇が深いですね。
そして宗教を毎度軽視するところも辛口でよいですね。
形だけのきれいごととかがほんとうにだいっきらいなんでしょうな。
ある意味人間不信に陥りそうになる内容なんだけど、ここまであからさまに描かれると逆に爽快というか人間ってどうがんばっても所詮ポンコツなんだと思えて気が楽になります。
しかし、筒井さんてほんとに上手。2人の女優が演じたのかと思うほどでした。
「モンドリアンは死をみつけた」
ゴッホは生を“ひまわり”にみつけたのにだ。しかしモンドリアンはどんどんと身についた無駄をそぎ落とし、最終的には“コンポジション”という抽象絵画にまで発展していく。“死”を追い求めて、それが白地の上に黒い垂直線と水平線のグリッド模様と3原色で構成される幾何学に収斂される。そのミニマリズム化はもはや現在ではテキスタイルやファブリックとしてインテリアに溶け込んでいる。よりシンプルになると自然に戻っていくのである。主人公の妙齢の訪問看護士は、果たしてその死に近づこうとしたときに何の光がみえたのだろうか。と、思わせ振りな解釈をしてしまったが、それ程今作品に於ける読み解き方は千差万別であろう。ストレートに観れば、
“メディアスクラム”による加害者家族への容赦ない仕打ち、裏切りと復讐と或る意味返り討ち、それが同性愛故など、テーマの要素は事欠かない。それなりに巧く構成に散りばめられ、フックとして展開を彩っている。主役の女優の年相応の筋張って老化に差掛かる裸体も又、作品にヒリヒリと疼くイメージ保持を持たせる重要なショットである。但し、大事な事は復讐劇としてのどんでん返し的なノン=カタルシス系という決着には落とさないエンディングであろう。一般的には好き嫌いがハッキリしてしまう、否、寧ろ拒絶反応が強い映画だと思うのだが、複雑な心の咆吼をクラクションに替える、はたまた、被害者の姉の主人公に対する独占欲故の裏切りを理解して欲しい叫びとしての呼び鈴の執拗なプッシュとの対としての演出に、そう簡単に観客には読み解かせないメッセージと、純粋でシンプルな葛藤の吐露を表現せしめた高品質なヒューマンドラマを体験できたことが、戸惑いをも飲み込む情の罪深さを同時に惹き込んでしまうことに気付かない人が多いのかも知れない。シンプルな構図と複雑な幾何学、白に黒線で境界を引くが、しかしそれぞれのキューブは大きさも色も違う。矛盾した心を抱え続けるのも又人間が与えられた能力なのであろう。轢き殺せば良かったのか、それとも自分への愛故の仕打ちだった事への赦しなのか、その原罪を受け止める力は観客にはあるのか、正に“試練”な作品である。
もやもや感が拭えない
予備知識なしに観たせいで、池松壮亮とのシーンと訪問看護師時代のシーンとの時制の違いがうまく飲み込めず、映画に没入できなかった。
やっと最後の方になって、復讐譚であることがわかったが、なるほどそうだったのか!と納得できたわけではなく、じゃあ、あのシーンは何だったの?と気になるところがいろいろと。(被害者支援の会の帰りに、池松壮亮に声をかけられ、その後ベッドシーンにつながるあたりの時制は?)
タイトルどおり、人を一面では理解できないことがテーマだとしても、主人公に感情移入できるわけでもなく、もやもや感が拭えない。
もう一回観たら、印象が変わって、もっとよく理解できるだろうか。
市子さん、一緒に住もうよ。私、お料理するよ!
ただ普通に生きていただけなのに。
犯罪の加害者家族になってしまったら。
しかも意図せずとも、自分がその犯罪のきっかけの一つに関わってしまったら。
徐々に崩壊していく日常とささやかな幸福の描写がきつい。
髪型を変え綺麗な服を着て若い男に近づき、どこか不気味な様子が見え隠れする現在。
質素な恰好をしつつ訪問介護の仕事をこなし、相手先の家族にも仕事仲間にも慕われ婚約も決まっていた過去。
なぜ今こうなっているのか。
所々で謎に思える仕草やリンクする人の変化とは。
現在と過去を行き来して同時進行で二つの時の物語を見せ、徐々に紐解くつくりの映画は全部好き。
人間と人間の関係性に明確な正解は存在せず、親しき仲でも一方通行の想いや相いれない壁が存在することを思い知らされる。
日常に寄り添うタッチで不快指数高めの描写、先の読めない展開が面白い。
ただ、起きていることの残酷さに比べて私自身はなかなか打ちのめされず、逆に高揚することも無かった。
市子の周りの人達にそれぞれ役目があって、ただそれをそつなくこなしているだけに見えてしまったのは何故だろう。
いやそもそも物語とはそういうものだし、無意味な人がいたらいたで何だお前、となるんだけど。
辰雄がサキをチラッと見る目だけで何か暗いことが起こる予感がするし、基子が市子を見る目は特別な感情に塗れている。
誰かが何かをするたびに、「そりゃそうだろうな」と変に納得できてしまうのが逆に物足りない。
やってることを考えれば納得なんてできるはずもないのにね。
大石塔子の存在はかなり良かった。市子と大石家を繋ぐ鍵。
市子の身にふりかかる理不尽な出来事に対し、物語の整合性がありすぎている気がした。
本当は強烈な話なのに、綺麗に小さくまとまった印象が拭えない。
もう少し大きい、内容に見合うショックを受けたかった。
四足歩行のシーンとかめちゃくちゃびっくりしたけども。ちゃんと四足歩行指導者がいてちょっと笑った。
「ささやかな復讐」を遂げた、はずだった。
想定外の事実を知らされた市子の表情とその後の幻、過呼吸に酷く苦しくなる。
でも基子の気持ちを考えれば結構な復讐になっていると思うけど。大ショックでしょ。
この映画は「難を受ける側」に寄っているのに、「難を与えてしまう側」に傾いてしまう自分が少し嫌。
基子の気持ちがもう痛いほどわかるのよ。
もともと筒井真理子氏をちょっと性的な目で見がちな時があって、それに加えて市子のあの優しさと接し方。
なんかもうこんなの好きにならずにはいられない。
映画を観ていくうちにめちゃくちゃ市子に惚れていたで、戸塚の登場には基子と共にわりとショックを受けてしまった。
基子の行動は市子目線では許し難いこと、狂おしく憎く思う人だろうけど、もしかしたら私も同じこと出来ちゃうかもしれない。いや、しないけどね。
基子…!基子…!という気分になってしまったので、最後は今一度顔を見合わせて欲しかった。
会話なんてしなくても、何か「あ」とかだけでも声のやり取りが欲しかった。
自分本位でごめんね。市子さんが好きなんだよ…。
つらつら長く述べてしまったけど、ストーリー自体は面白いし全く退屈しなかった。
お前がこんなことしなければ。辰雄の話を聞きたい。この映画のキモがそこじゃないのは承知の上。
あと5時間はこの物語を見ていられる。市子さんと共に生きたい。そうだ、一緒に住まない?私、お料理するよ!今働いてるお蕎麦屋さん、どこにあるの?
わざとらしくらいのマスコミの描写にはかなり沈む。
安易なマスコミ批判は好きではないけど、現実的に報道の現状に不愉快に思うこともまた事実。
ニュースってどこに届けているんだろうね。私は最近ニュースをどう見ればいいのかわからないよ。
ターコイズに染められた髪のシーンが好き。
一回全部リセットしてこ。生き返っとこ。お口パクパクしてこ。
シナリオのうまさ
深田監督ちょっとゴツゴツしたというか、引っ掛かるところのある話になるイメージあったんだけど、この作品は滑らかに流れてて「うまい」って感じだった。それが良いのか悪いのか解らないけど。
時系列まぜこぜになるんだけど、それもちゃんと解るんだよね。筒井真理子さんの髪型で解るようにしてるのもあるけど、多分、同じ髪型でも解るね。これ筒井真理子さんがめちゃ上手いからなんだよね。表情で解んの。
それで「これがサスペンスか」って感じで、「なに? どうして?」って前半は引っ張ってくのね。もう、観ちゃう、観ちゃう。
それで「そういうことか!」って解ってからは、人間の内面を描いてくのね。ここで医師の息子に誕生日プレゼント渡すシーンは「うまいなあ」って思った。説明なしで、それで解るもんね。
この辺からは、誰が何を思うのか、明確には解らないけど、なんとなく解るような、でも解らないっていう展開ね。それでも観ちゃうのは、やっぱり筒井真理子さんなんだよね。それで女優を信頼して、この脚本をあげた深田監督もすごいと思うの。
作中で筒井真理子と池松壮亮のデートシーンが結構あるんだけど「俺、筒井真理子さんとデートしたい」ってめっちゃ思っでね。いいよね。池松壮亮うらやましかったもん。
市川実日子も、もう流石なんだよね。筒井真理子、市川実日子の二人でないと、この映画、成立しないね。
横顔の向こう側を、伺え知ることは出来ない…
“ ひまわり ” で知られる画家、
フィンセント・ファン・ゴッホ
とかくゴッホと比較されがちなもうひとりの画家、
パブロ・ピカソ
作風も年代も違うのに
なぜ我々はふたりの天才画家を関連づけて
またどちらかを連想してしまうのか?
それはふたりの歩んだ人生が対照的で
それぞれを側面的に捉えたほうが
よりドラマティックに
ヒトが感じるのに他ならないからでしょう…
ピカソがキャンパス上の平面において
立体的に表現しようとした “ ゲルニカ ” よろしく
女性の知られざる側面を
複数の角度からあぶり出し描いた本作『よこがお』
ピカソの絵画的手法〈キュビズム〉の代わりに
深田 晃司 監督の映画的手法で表現された《ふたつの時間軸》が
主人公・市子を多角的な女性像にかたちづけていく…
そう、彼女自身も知り得なかった側面、よこがおを…
事件の発端を担ってしまった罪悪感
真実を語れなかったうしろめたさ
過剰な反応をみせる報道陣
周囲を取り巻く不信感
信じていた者からの拒絶感
社会からの疎外感
他人に膨らむ猜疑心
それら転じて、基子に収束する復讐心…
その行き着く先に彼女はなにを想うのか?
そして鑑賞者はなにを受けとるのか?
「芸術とは人生の予行演習である
芸術を享受していくことで
少しずつ野蛮で理不尽な現実に
心を慣らしていくのだ」
本作・深田 監督の言葉です。
「芸術とは我々に真理を悟らせてくれる嘘である」
パブロ・ピカソの言葉です。
でも最終的にヒトの行き着くところは
フィンセント・ファン・ゴッホの
「考えれば考えるほど、人を愛すること以上に
芸術的なものはないということに気づく」
…という言葉に、
人生が集約していると、わたしは信じたい!
実年齢以上に若々しく綺麗な筒井真理子さん!
複雑で様々な感情を豊かに体現してらして
女優としての円熟味とスゴ味を感じた!
市川実日子さんの恋愛感情と同等の憧れと
その裏切られたような憎しみが同居する…
今思えばそんな二面性の顔を表していた
そこはかとない演技!
彼女にぜひ助演女優賞をわたしは送りたい!
本作の池松 壮亮さんの役柄が、近作のなかで
素の彼に一番近い印象を受けました。
わたしも見えているであろう表面上の顔を
取り繕うのをやめて、内面を見つめ直し
感性の赴くまま芸術論を語りたい…
まぁ、引かれるでしょうが!(笑)
隠し味は、女性の嫉妬
米田(池松壮亮)が勤める美容室を訪れたリサ(筒井真理子)。
初めてだという彼女に、米田は「以前お会いしませんでしたか」と訊く。
彼女はかつて訪問看護師として働き、その仕事ぶりも高く評価されていた。
当時の名前は白川市子。
かつて、彼女が看護していた老画家の中学生の孫娘・大石サキ(小川未祐)が誘拐される事件が起きた。
が、犯人が市子の甥だったことから、市子の人生は変わったのだった・・・
というところから始まる映画だが、現在と過去の事件の顛末が交互に描かれていく語り口は、はじめ少々戸惑う。
注意していれば、市子=リサの髪型なり、場所の住所表記なりで、別の時間軸だということはわかるのだけれど。
ま、漫然と観ているこちらが悪いのだが。
それはさておき、誘拐事件としてはそれほど大事には至らない。
犯人が10日ばかり孫娘を連れまわしたので、営利目的でもなく、被害者に危害は加えなかったからだ。
けれども、事件を契機に市子の人生が崩壊していく。
彼女が被害者宅で看護していたこともさることながら、犯人である甥が被害者と居合わせる場を図らずもつくってしまったからだ。
市子は被害者の姉・基子(市川実日子)と仲が良い。
ニートの基子にとっては、市子が唯一の友といってもよい。
そんな基子が看護士になるための勉強を市子がみてやっている。
場所は大抵は近所の喫茶店。
そこへ、むかし市子が使っていた参考書を犯人が届けに来、偶然、サキも居合わせてしまった・・・
そういう偶然レベルなのだが、基子からの甘言によって、市子は大石家に犯人との関係を告げないままでいて、それがあらぬ疑惑を生んでいくことになり、結果、市子の人生が崩壊してしまう。
この崩壊のスリリングには、大きなスパイスが隠されている。
それは、市子と基子の関係。
基子は、市子のことが好きなのだが(たぶん、憧れというようなレベルは超えている)、市子はそれに気づかない。
無頓着といってもいい。
市子を独占したい、手放したくない思いから、基子は甘言を囁き、無防備な市子は易々と乗ってしまう。
その後、基子が市子の人生を崩壊させる証言をするのは、疎外感から。
事件の渦中にいる市子を助けようとして、自分と逃げ隠れることを提案するが、婚約者のいる市子は現実的でないと突っぱねる。
この「独占欲」と「疎外感」は、別の言い方をすれば「嫉妬」である。
女性同士のこの手の映画は、ジュディ・デンチとケイト・ブランシェットの『あるスキャンダルの覚え書き』や、カトリーヌ・フロとデボラ・フランソワの『譜めくりの女』があるが、日本映画では珍しい。
映画のラストは、看護師になった基子を見とめた市子が、自動車の運転席でクラクションの轟音を鳴らすシーンと、その後、自動車を運転し続ける市子をサイドミラー越しに捉えた長い長いカットだけれど、たぶん、市子は基子の気持ちにに気づいていない。
復讐できなかったことに対する悔しさだけなのだろう。
これが、基子の気持ちを知った市子の咆哮を暗示するようなものだったら、この映画、傑作になったはずだ。
「断絶的」な人生の視覚的記号
予備知識一切なしでの鑑賞、前半は何がどうなってるのか、全く追いついていけなかった状態だったので、その分、ミステリーだらけ。
なぜ同じ顔をする女主人公(もう一人も主人公とも呼べるなら....)は違う登場人物のように見えて出てるだろう。
洒落てる女の方はなぜ知らない男と付き合っているだろう。
並行する二つの物語が一見何の関係もなかったようだったが。
きっとそうでもない。
関係ないというわけにはいかない。
その答えを知るたく、興味深い映画形式と共に、謎解きのルーティンを追って行った。
最後洒落てる女の方が真相を教えてくれた。
「復習なのだ」と。
男は彼女を、「市子さん」と呼んだ。
やはり同一人物だーと!
その一瞬で、全ての疑問が矛盾もなく解けた。
全てが繋がってた。
物語の時間軸において監督の見事な叙事トリックを仕掛けたんだ。
そこまで気になったことが全てヒントとなって対照的だった。
二点列挙していこう。
→動物園のシーンに、暖・冷色によって作られた二つの断絶な空間と、それぞれの空間にいた過去の市子と基子・現在の市子と謎の男。
過去の市子は暖色の服を多く着ていたのに対して、男で復讐をしようとする市子の服は基本的に冷たい色になっている。
→夜タクシーの鏡に映った、心配で妹に電話をしている過去の市子と、映画最後のシーンで鏡に映った、ハンドルを握った現在の市子の立場も、全く断絶しているところにある。
特に映画最後のノイズは、市子の心境を示すものだった。彼女は運転席に入り、妹のことの傍観者でなく、事件の主体になったのだ。自分の人生の局面を自分の手で挽回しなければならないが、彼女には、もうその狂った精神で崩壊していく。
全ての断絶的なものの接点になったのは、過去の市子と謎の男・実際には基子の彼氏との出会い。
あの夜の出会いが、その幾つかの断絶的な空間・事物を繋げていく。それこそが復讐のはじまりであり、狂った歯車が走りだした瞬間だった。
一方、根本的な原因を探ると、その瞬間は、基子の中に生じた異変から由来するものだ。基子の市子に対する好意は映画の冒頭からはっきりと観客に伝わってくる。それはきわめて安定的なものでだった。しかし、その安定的なものが、基子の市子に対する告発で崩れた。
並行する二つの物語は一つになった。ほんの少しの当事者の心乱れによって、何もかも一変した。
監督は解釈をしてなかった。ただ視覚的な記号を巧みに並べた。
後は観客の主体性に任せるーーー
細かく見ればみるほど、「過去」と「現在」が断絶的かつ連結的に見える。
人の心が、そうした断絶と連結を生んでいるのだ。また断絶的なように見えるものも、実際には必ず何かの糸で繋がっている。人の心は、複雑で、予測不可能なものだが、この映画を観たら、何となく、自分の感情に責任を取らなければと思った。そうすると、きっと誰かが救われ、自分も救われると思った。
「淵に立つ」ほどではなかった。つまらなかった。
深田監督の前作「淵に立つ」は、浅野忠信の一見気付かれにくいようにある家族を、内部からじわじわと破壊していく様を描いていく。破壊していく理由が、後々明かされるのだが、今回「よこがお」に関して、職に就けない基子が、市子を追い詰めいくが、その理由が漠然と表現されていない。全くつまらない。なぜ、基子が市子に執拗に迫っていくのか。その答えは、私には勇気を持って答えられない。「淵に立つ」は、そこが明確に描かれている。ただ。市子が加害者の親戚であることで、通常の生活の幸福を無残にも打ち砕かれていく。どうしてそのことが、「無実の加害者」に転落していくということなのだろうか。メディアが、ありきたりに追ってくる場面は、もうしらけてきた。「淵に立つ」の浅野さんの人物像が、あまりにも強烈であるがために、今回の筒井さんの演技、なぜか「犬のまね」をしたが、必要性があったのか?意味があるなら良いが、キーポイントがないなら要らない。人間関係が絡んではいるが、内容は前作ほどグイグイ引っ張られるほどではなかった。
市川実日子さんは、是枝監督作品では良かったのに、今回は何か以外な凄味がなく、逆に物足りなさを感じた。同じく是枝作品に出演した池松さんの鼻にかかる声も飽きた。吹越さんの出番が少ないのも残念。
きっかけ
人間長く生きていると良かれと思ってやった事で恨まれたり、思ってもみない事で反感を買ったりすることがあります。善き人間の象徴である市子が基子と深く関わらなかったら、善き人間のまま人生を全うできたかもしれません。逆に基子も何かのきっかけでニートになり、市子と知り合い彼女への独占欲を強めていっただけにすぎません。この二人の関係は極端だとしても、親子、恋人、夫婦、友人など、誰もが似たような経験をしているのではないでしょうか。
市子も基子もふとしたきっかけで人生が大きく変わりました。彼女達だけではなく、辰男も辰男の母親もサキもです。残念ながらこれは「努力」では防ぐ事ができません。努力不足や自己責任と言えるのは、運良く上手くいったから、運良く成功したから、運良くお金のある家に産まれたから言える幸運な人間の一方的な言葉なのです。人間は運に大きく左右され、人生は常に不条理で不安定で、善き人になるのも悪い人になるのも強者になるのも弱者になるのも紙一重なのです。この作品は今の日本で忘れられたその真理を思い出させてくれました。
深田監督の作品は前作の「淵に立つ」しか鑑賞していませんでしたが、鑑賞後言葉にならない気持ち悪さが残りました。日本映画界では非常に稀有な存在だと思います。また、筒井真理子さんの妖麗さやつかみどころの無い感じが、イザベル・ユペールを彷彿とさせました。私はヴァーホーベンの「ELLE」が大好きなのですが、あんな感じの作品を演らせたら日本一だと思いますし、是非作って頂きたいです。
LGBT
市子が基子に愛されていることをいつしっかりと理解できたのかが気になります。かなり終盤であるのは間違いないですが。また、市子はその愛をどう受け止めて、どう消化したのでしょうか。あの笑い、先に張られた頰、介護士になった基子を見たあとのクラクション。解釈に時間がかかって、有楽町で質問できませんでした。サキが去った後にも隣に座り続けていた基子は伏線だったのでしょうか?
人の目
訪問看護師の主人公市子の生活が甥が起こした犯罪の影響で変わっていく話。
仕事を辞めた主人公が美容院を訪れるシーンから物語が始まり、時間がさかのぼって事件前後のパートへと展開して行く。
ことが起こってからの基子の嫉妬や踊らされたマスゴミの異様っぷりが非常に不快で気持ち悪くて良い感じ…なんだけど、時系列を弄くり過ぎて話がしっくり入ってこない。人間性が違い過ぎるからか、主人公がちょっと薹が立っちゃってるからストーリーを受け入れられなかったのかも。
幻視だか妄想みたいなものもあったしね。
空回りと惨めさと虚しさややるせなさは悪くないけど、変化の切っ掛けは何だった?あったのかも知れないけれど、自分には良くわからず…。
作品そのものにしっくり来ないモヤモヤが残った。
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