「大都会の盛り場は好きではない」天気の子 eigazukiさんの映画レビュー(感想・評価)
大都会の盛り場は好きではない
ロバート・デニーロ主演の1976年の映画「タクシードライバー」の一場面で大都会でタクシーの運転手になった主人公が大都会の腐敗した暗い部分を嘆いて言った「雨が歩道のゴミを洗い流してほしい」という感じのセリフがあるが「天気の子」で降り続ける大雨はまさにこのような感じだった。主人公とヒロインは大都会で懸命に生きようとするが大都会の闇の部分によって人としてあたりまえに受ける幸せの権利を奪われようとしていた。その後いろいろあって大雨が大都会の闇の部分を洗い流し二人は幸せの道を歩み始めたラストは涙腺にくるものがあった。新海誠監督の前作「君の名は。」はアダムのイブの話に似ていると思ったがこの「天気の子」はノアの方舟の大洪水の話に似ていると思った。地上に人の悪が増大し神が人を造ったことを悔やみ天罰として大洪水を起こしたという話に似ていると思った。
結論:本作は圧倒的に絵が美しくラストでは感動した。だが大都会の盛り場はあまり好きではない。
追記:
最初の船内のシーンではお金をあまり持っていない主人公の少年が大人に夕食とビールをおごらされているシーンがあるがこのシーンは大都市の現状を比喩的に表現している。例えると大都市は一年のうち半分以上は大雨が降っている弱肉強食の熱帯雨林ジャングルのようなものである。大都市では弱者ほど金を吸い上げられ長く生き残れないのでお金が生き残るためのすべてであるという考え方に物語の主人公が染まるのは当然だと思った。そういう少年は成長し大人になってもお金が全てという考えを持ち続けると思う。こうして自分が生き残るために弱者を利用する大都市の社会ができあがっていく。
物語のクライマックス。大人たちに追われて逃げている主人公である家出少年の帆高が廃ビルのフロアの隅に追い詰められ拾った拳銃を大人たちに向けているシーンはこの物語での悪役が大都市の住民である大人たちであることを示唆している。市民のうつし鏡である警察、少年少女を金儲けに利用するヤクザなどの悪い大人、この場面にはいないが自分たちより弱い他人の困窮に対し気にもかけず行動を起こさない政治家や一般市民などのすべての大人たちがこの物語での悪役であると思う。
穂高は拳銃を構えることによって人として当然もつべき幸せに生きる権利を主張したのだ。大人たちは立場の弱い人たちを金儲けに利用し、自分たちに都合の良い法律をつくり、メディアを混乱させ都合のよい社会を作り上げ高水準の生活を守っている。大人たちの高水準の生活のために犠牲になる人たちが大勢いると思う。人が人を喰らうことでしか維持されない世界など沈んでしまえというメッセージをこの作品から感じた。
しかし私はこのメッセージは強すぎると思う。現実の世界は人類の理解を超える混とんの世界であるので人の力、ましてやいるかいないかわからない神の力などで解決できるというのは違うと思う。
追記2:
私は天気の子は映画監督のことでもあると思った。この映画「天気の子」は観客を泣かすための工夫がすごい。主人公の感情が高ぶっている場面に畳み掛けるように歌を流すので泣かざるをえない。この映画の監督は観客の感情をまるで天気を操っているかのようにコントロールする。この映画の監督は悲しい場面を観客に見せて観客の涙の雨を降らせたり、ハッピーエンドを見せて観客に雨あがりの晴れ間のようなすがすがしい気持ちをおこさせたりできる。
まとめ:観客の感情を自在に操る監督はまるで神である