「『君の名は。』よりもシリアスです。」天気の子 深水透子さんの映画レビュー(感想・評価)
『君の名は。』よりもシリアスです。
本来、映画のレビューというものをあまり書いたことのない自分が、こうして映画鑑賞直後に文章を打っていることをふと自覚した。
この映画は新海誠がメディアに向かって語るように「賛否両論」を巻き起こす結末を迎える。ここから先の文章はネタバレ全開で書いていくため、まだ観ていない方は控えてほしい。唯一、声を大にして伝えたいことは、お金を払って劇場に足を運ぶ価値がこの作品には十分あるということだろう。
さて、ここからいよいよ、本作の結末について触れていきたい。
冒頭の『ライ麦畑でつかまえて』(村上春樹訳)のメタファーが開示されたことにより、主人公の内証(心理描写)と、表層的なセカイが連結していることは、すでに示されている。陰鬱な空の背景、冒頭から鳴り響く心電図。その深刻な描写のひとつひとつが、この映画に潜むシリアスをドライブさせていることは、すでに映画を観た方なら解るだろう。
この映画の山場は間違いなく、主人公の帆高が陽菜に会いたい一心で警察を振り切り、制止するひとたちに向けて銃を突きつける場面だ。
ひとりの人間の抱え込む愛情が世界そのものを変えてしまう。
『君の名は。』ですでに示した主題の、その先を描いた帆高の姿は、ホールデン(ライ麦の主人公)のように、愛情を抱え込んだまま周りを巻き込み、暴走する。自らの会いたいという気持ちが先行し、東京に未曾有の水害をもたらす起因を生じさせてしまうのだ。
これが長年、近代文学によって追求されている【エゴイズム】でなければ、私たちは帆高の抱えた愛情を、いったいなんて、どう、表現したらいいのだろう?
世界は変わってしまった。
しかし、二人は再会できた。
ああよかった、と。
そう思えるだけの作品なのではない。ハッピーエンドではないビターエンド。そうジャンルで括ってしまえば簡単なのだけど、時にエゴイズムが世界そのものを破綻させてしまう危惧を、私は感じずにはいられなかった。
私たちだけがハッピーエンドであれば、
本当にそれでいいのだろうか?
帆高と陽菜の再会のシーン。
その背景には退廃した世界が
拡がっている。
愛によって破綻した世界、
それはたしかに美しさを孕んでいる。
しかし、そういった破綻した世界の果てに生活を営むひとたちがいることを、私たちは忘れてはならない。瀧のお婆ちゃんがその例であり、前の家で生活できなくなった彼女は、アパートへと引越しを終えている。「晴らしてほしい」そうお天気お姉さんに依頼をしたのにも関わらず、彼女が口にした印象的な台詞を忘れないだろう。
「結局、元に戻っただけ」なのだ、と。
破綻や理不尽へ遭遇した時、ひとが折り合いをつける理由は、最終的に、こういう台詞に辿りつくのかもしれない。元に戻ったのだから、仕方がない。と。
世界は廃れてしまった。
でも二人は再会できた。
愛ってすごい。
世界を破滅させても実る恋って、
なんだか素敵じゃない。
そんな安っぽいエゴイズムの肯定に
この秀作が利用されないことを、
ただただ、願うばかりである。
【追記】
この物語における「銃」の存在が不要だというレビューを見かけるが、私はこの「銃」こそが、この物語の最も重要なアイテムであり、『君の名は。』から脱却しようとしている新海誠のクリエイターとしての意思を感じるのだ。
ただ陽菜を助けるだけではない。
須賀さんや警察に銃を向けてまで。
つまり殺すという手段を取ってまで。
「陽菜に会いたい」という一心でそこまで動く帆高は不安定だ。この凶暴性を含む愛情がトリガーとなり、陽菜は救出されたものの、東京は未曾有の水害に巻き込まれるのだ。
たったひとりの少年の愛情が、世界そのものを腐らせてしまう。その結末を銃というアイテムが暗示しているのは事実だ。
実際、帆高が銃を突きつけた瞬間に「愛にできることはまだあるかい(movie edit)」が流れるのだから、このシーンにスポット当てている新海誠の意思は明白である。
そして、
このあまりにも不安定な愛情を、
「帆高のひたむきな姿勢が良かった」
「まっすぐな気持ちが良かった」
などと、
【美化された愛情】としてしか
受け取れられないのであれば。
あなたも帆高と同じように
一つの感情を先行させて
世界を破綻させる可能性は
十分にありえる。
そういうアイロニカルな話だと思うのだ。