劇場公開日 2019年4月12日

  • 予告編を見る

「「神授型」の“謎”に迫って欲しかったが・・・」チベット ケサル大王伝 最後の語り部たち Imperatorさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0「神授型」の“謎”に迫って欲しかったが・・・

2019年10月21日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

“チベット人”は、チベット自治区だけでなく、青海省や四川省といった、自治区に近い辺境地域にも多く住んでいる。
言語圏は大別して、(1)ウ・ツァン、(2)アムド、(3)カムの3つあり、驚くべきことに、相互で言葉が通じないという。

「ケサル大王伝」という叙事詩の成立には、チベット仏教だけでなく、仏教以前の土着の文化や宗教(ボン教)なども関わっているという。
また、モンゴル・中央アジアや、カシミール地方など幅広い地域で、チベットとは異なる各地のバージョンがあるようだ。
文章や語りだけでなく、絵にも描かれ、また、舞踊団は祭りでパフォーマンスを披露している。

この映画は、そういう巨大な「ケサル大王伝」の全貌を語ろうとするのではない。
青海省の、標高3600~4400メートルの地域である、(a)ジドウ(治多)、(b)ジェクンド(玉樹)、(c)タルナ(達那)寺という「カム語」地域に限定して取材している。
そして、「神授型」の語り部を軸にインタビューし、実際に大王伝を語ってもらうのだ。

「神授型」とは、文盲であるにもかかわらず、ある日突然、夢のお告げなどで、熱に浮かされたようになって、大王伝を語り始めたタイプである。記憶力は抜群で、今では20数名しかいないという。
しかし当然ながら、大多数の語り部は、習い覚えた「学習型」タイプである。
本作の観客は、全部で7人の語りを、たっぷりと堪能できる。印象としては、朗々と詠唱するというより、早口に語り抜くという感じだ。
ただ、機関銃のように、矢継ぎ早に発せられる彼らの言葉に対して、字幕に出てくる台詞はシンプルなので、翻訳は少し不十分かもしれないと思われた。

オカルトの類いを全く信じない自分は、「神授型」であっても、必ず何かの機会に触れて、「学習」しているはずだと思う。
語り部本人が、全く覚えていなかったり、自覚していないだけだろう。(実際、「神授型」の語り部も、ローカル・バージョンしか知らないようだ。)
しかし、この映画は、「神授型」は「習いもしないのに説唱できる」というスタンスだ。
したがって、客観的に「神授型」の“謎”に迫っているとは言えず、そこが不満なところだ。

同じ話を、「神授型」と「学習型」の語りを比べたシーンがあったが、言葉や内容は、やはり全く異なっていた。
基本のストーリーを守れば、あとは具体的に何を語るかは、語り部自身の創作や即興であることが、明らかであった。それなら、一見、「神授型」でも、何の不思議もないのではないかと思った。
「学習型」の語りは、少し具体的で文学的だった。それに対し、「神授型」の語りは、(字幕を見る限り)素朴な“お話”風であり、それゆえ彼らが文盲であったということが信じられるのだ。
実は、こういう比較シーンを沢山観たかったのだが、残念ながら一場面だけだった。

「ケサル大王伝」の語り部は、世界的にみても数少ない、叙事詩の“口述”パフォーマンスを残している。
しかし今や、中国政府の観光化政策の一環として利用され始めており、今の若い人は中国語も話す。中国の中央統制的な“植民地支配”は、着実に進行しているが、うっかりと本当のことは話せない。聞く側よりも、答える側に危険が及ぶ。
また現在、この辺境地域において、ものすごい勢いで開発が進んでおり、ゴミも散乱している。関係者は、「きれいな環境がないと、神授型の語り部は生まれない」と心配する。

巨大な「ケサル大王伝」も、今やテキスト化されて“定本”が発刊された。
本当の意味での“口述”の伝統は失われようとしており、それゆえ映画の題名が「最後の語り部たち」なのだ。

古代ギリシャやインドを挙げるまでもなく、日本にもかつて、「古事記」や「平家物語」や説経節のような、口承文学の伝統があった。
いずれも初めから“定本”があったのではなく、複数の語り部が、ある期間をかけて、話を膨らませて、面白くブラッシュアップさせてきた、共同創作だったはず。どこまでが歴史的事実なのかということとは、別問題である。
自分は「神授型」を言葉通りに受け取ることはできなかったが、“口述される文学”の複雑で生き生きしたライブな姿を、この貴重な労作で堪能することができた。

Imperator