「映像と効果音はとにかくいい」機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ 映画読みさんの映画レビュー(感想・評価)
映像と効果音はとにかくいい
映像は、現代の一線級のアニメ映画レベル。
それでオカルトでない宇宙世紀ガンダムをやってくれたという喜びがある。
また、夜空を浮遊するペーネロペーのピピピ音も、不気味さを感じさせる良い演出。癖になる。
映像的にもどかしかった点は
・徹底的に夜間戦闘で機体をよく見せてくれない
・戦闘シーンがエースコンバットかアーマードコアのプレイ画面的
という程度。
事前にペーネロペーやクスィーの姿が頭にあったから楽しめたが、完全に情報0の人ならば敵味方の区別もつかず、どこにガンダムらしいガンダムがいた? ということになりそう。自分としては人物~機体のハイクオリティな映像面は楽しめた。
ただ、映像面が素晴らしいゆえに、脚本や構成における不出来さが苦しい。純文学的な内容を打ち出すことが目的の作品だとしても、現代映画として到達させるべき最低限の娯楽水準に届いていない。
具体的には
・言動において、魅力的に感じられる描写がない主要キャラクターたち
・テンポの悪い間延びしたシーン
・唐突でご都合に感じる話運び
に延々と付き合わされる点。
自分は脚本びいきな自覚があるが、「テンポが悪い」は多くの人が感じることだろう。95分でやった内容としては中身があまりにもなく、1つ1つのシーンが丁寧というより冗長になってしまっている。
元々、原作小説は上中下の3冊で、3冊あわせて2時間映画なら可という程度の、内容の乏しさを抱えている。実際、Gジェネでの『閃光のハサウェイ』のステージ数は、1冊の小説であり2時間映画である『逆襲のシャア』と変わらない、もしくはそれ未満だ。
今回の映画を逆シャアで例えるならば、「最序盤のアムロがリ・ガズィでギュネイと戦ったところまで。それを1時間半かけてやった」という具合になる。それも、アムロよりも行動原理が不明で決断力に欠く、ハサウェイという主人公で。
会話原稿は30年前に書かれたものほぼそのままなので、対話の内容・テンポ・リアクションも現代からすると妙な感じであり、対話に中身が無いので「人間ドラマに尺を割いた」とは言い切れない。
そもそも、原作が執筆された89年当時にしてすでに「理想のために、迷いながら、とりあえず暴力を伴う反政府活動をする」という学生運動活動家のような若者は、20近くズレた若者像であった。
以下、とくに脚本・構成上の気になったことをより具体的に。原作にある内容でも、現代の作品とするにあたって改修の必要があった箇所に思う。
・冒頭のシャトルジャック解決のシーン
ギギ、ケネス、ハサウェイの主要キャラクターの魅力を描写しつつ、ケネスとハサウェイの強さと決断力を描き、三人に縁を成立させることが目的のシーン。しかし魅力を出すために取った手段が「微妙に滑ってる会話」では冒頭から失敗している。さらに小者=やられ役のシャトルジャック犯の言動に割く尺が、なぜかやたらと長い。他作ならエッフェル塔で刺しに行って「残り180秒!」とか言ってる時間で、本作ではまだやられ役のシャトルジャック犯=モブキャラクターが演説している。何でもかんでも解像度を上げればよいというものではない。この場面ならばギギがニュータイプ的に二人をけしかけ、ケネスとハサウェイがあっさり制圧して切り上げて先に進んでほしい。このように、くどさやもどかしさを覚えるシーンが全編にわたって散在している。
・終始重苦しい
原作を知る人間からすれば救いの無い物語であることは自明なのだが、その実現手段として「ずっと暗くする」は誤りである。重厚で深みのある作品は確かに存在するが、暗く重苦しくしておけば必ず深みが生まれるというわけではない。その証拠に、本作は鑑賞後にネタにできる部分が全くない(だからカボチャが本編の文脈度外視で踊らさせられるはめになった)。観客の心情をコントロールするための歩み寄りや、物語としての振れ幅を欠いた内容となっている。
・ハサウェイの魅力が無い
30年前の原作執筆時点なら「理想はあるが、非情になれない凡な青年」なのだが、30年以上が経過した今では「大勢を巻き込むのに、決断力を欠く無責任な青年」に映る。元々憧れる対象として書かれていない主人公ではあっても、頼れるリーダー設定なのにリーダー未満な存在としてしか映らないことに問題がある。
具体的には、
①証拠がないギギの直感に対して、あっさりマフティー首魁だと認めてしまうこと
認める必要がない。信念の達成や仲間のことを想うなら、絶対に認めてはいけない。
②市街戦ではリスクであるギギを放り出せずに、仲間たちの作戦を台無しにすること
市街戦のどさくさに紛れてギギを抹殺しようかと考えるぐらいが、民間人の犠牲を厭わないテロ組織の首魁であるハサウェイのリアリティだ。例えば、『逆襲のシャア』におけるアムロは、ロンデニオンでシャアに偶然出会うと問答無用で撃とうとした。これが「その世界を本気で生きているキャラクターの行動」=リアリティである。本作のハサウェイには、リーダーとしても個人としてもリアリティがない。実際、ハサウェイの部下は、眼前でのハサウェイの意味不明な行動に対して「どうして来ないんだ」「良くないところが出ている」と苛立ち、結果として決死の陽動をかけてくれた仲間が捕らわれてしまう。この時点で、ハサウェイは魅力的かと言われるとノーとなってしまう。結局、救ったギギもマフティー本部に連れていくわけではなく、仲間達の陽動は味方を捧げ民間人を巻き込んだだけの徒労に終わっている。
③タクシーの運転手に論破される
「1000年後の地球のために、まだ住める地球から、全人類はすぐに出て行くべき。出ていかないなら武力で追い出す、殺人もいとわない」という、逆シャアを経てどうしてこうなったという過激思想に染まっているハサウェイだが、モブキャラクターであるタクシーの運転手に「1000年後だなんて、暇なんだろ」と言われるとハッとして、反論できない。そしてその晩思い悩む。つまりこのハッとする描写は「人間はわかりあえないのか」ではなくて「あ、そうだったんだ、自分」と初めて気づいた描写であり、民間人に死者が大勢出るような行為を「何も深く考えずにやっていた」ことが判明する。学生運動時代の若者ならそういうものだっただろうが……現代的には、責任感も思考力も乏しい青年としか映らない。
④英雄描写
しかしマフティー本部に合流した後の彼は、先日の意味不明な行動による作戦失敗を咎められることもなく、まるで頼れるリーダーが帰ってきてくれたかのように大歓迎で迎えられる。これではハサウェイ個人のキャラクター性という問題を超えて、脚本全体の未熟という域になる。
⑤「全部俺のせいだ」
やっとクスィーに乗った後での彼。反省せざるを得ない状況まで追い込まれてから出る台詞なので、かっこよくはない。観客としては「そうだよ」としか思えず、同情も共感もできない。
・ギギに説得力がない
前提となる設定と実際の言動がかけ離れているのはハサウェイだけでなく、ギギも同様である。外見は美しいのだが、性格や言動はよくいる純真不思議ちゃんで、これが80歳の大富豪を心身ともに籠絡し、基地司令とテロ首魁の心にさざ波を立てる存在には見えない。実際、ハサウェイもケネスも本心ではギギに入れ込んでおらず、心理的に一歩引いて「要警戒」と見ることができてしまっている。原作では元々14歳の設定で、シャアを骨抜きにしたララァのような存在だったが、外見的なビジュアルが変更されたことで設定と言動の齟齬が出てしまっている。
・移動シーンが多い
市街地で逃げ回るシーンは緊張感があるのでともかく、ハサウェイが無言で独り歩くシーンが多い。
世界を緻密に表現している……というより、原作をほぼそのままで3部作という無茶な前提のための尺稼ぎに見える。実際、移動シーンが増えるぐらいならペーネロペーやクスィーの全体像がはっきり閲覧できるシーンなどがあってほしかった。
・ご都合を感じる展開
1つ1つのシーンは間延びしていて冗長に感じるのだが、シーンが次へと進む転機となるものは「直感」が繰り返される。ギギがハサウェイをマフティー本人だと気づくところ、ハサウェイがギギを信じてエレベーターに乗るかどうか決めるところ、ケネスが、ハサウェイがマフティー関係者だと見抜くところ、ハサウェイが、ケネスは自分の正体を見抜くだろうと予想するところ、全てが「直感」で、しかもなぜか「確信」扱いで、それによって物語が進んでいる。軍事を舞台とする話の運びとして粗く、丁寧に描くべきこととそうでないことの本末転倒が起きている。
・クライマックスの出来事が弱い
クスィーガンダムを戦闘中に受け取ることが、第一作のクライマックス。作中のキャラクターが作中世界で頑張っているのはわかるのだが、正直、他のアニメなら小エピソードの1つとして流されていると思うシーンである。他作では、キャラクターたちが冒頭でもっとすごい覚悟のもと、もっとすごい空中受領をしている作品すらある。不評が多勢を占めるエヴァQですらそうなのだ。なので、これが95分映画の山場として出されてもきつい。
・引きがない
本作の最後、やっとのことでクスィー対ペーネロペーの初戦となるが、ここでクスィーはペーネロペーに完勝してしまう。原作を知る人間にとっては「原作路線で行くようなので、もう脅威がいない」ところで区切り。原作を知らない人にとっては、まさかペーネロペー以外の敵がいないとは思わないからいいのだろうか。
・歌
これは全然あっていない。とりあえずロボットアニメならこういう感じだろうというスカッと爽やかぶち上げ系の歌がスタッフロールで流れるが、ひたすら重苦しい閃光のハサウェイなのである。私はエンディング時、本作について芳しくない感想を持っていたので、最後にこの歌が流れて「完全にB級でラッピングされた」と思った。チープな疑惑があるものに、そのチープ感を上乗せするものとなっている。
・総じて
脚本、構成のレベルは非常に低い。
3部作という企画自体に無茶があるとしても、つじつま合わせや3部作用の改変調整はするべきだった。このテンポ、この空虚さ、受け入れられる人しか受け入れられないだろう。
そんなこんなで
「ガンダム作品ではある」
「現代の映像美で作られた宇宙世紀正当続編ではある」
のだが、
「絶対評価で面白いかと聞かれたら、面白いとは言えない」
「他の作品含めて相対評価で傑作かと聞かれたら、駄作寄り」
というのが私の感想になる。
テーマを変えることなくエンタメに乗せることができたはずだ、という惜しさしかない。「すごいと言われそうなものを作る」が優先され、「面白いものを作る」がおざなりにされた結果、映画作品として総合的には「すごくないものが出来てしまった」という、作る側の自己満足的な内容に陥っている。
ハサウェイの原作小説が1989年に出てから、数々のガンダム作品が作られ、他のロボットアニメ作品も作られた。その中には「当時最高峰の映像美」をしながら、「人間ドラマ」も「エンターテイメント」も達成していた作品もある。「主人公の裏の顔はテロリストの首魁で、主人公やライバル、脇を固めるキャラクターたちがとても魅力的な作品」もあった。その主人公は決断力に乏しいわけもなく、『撃っていいのは、撃たれる覚悟があるやつだけだ!』と最初に言っていたが。そのレベルの作品たちと比べれば「30年前に書かれた、ガンダム内でも評判の乏しい小説を見直さずそのまま脚本化」「企画的に決められた長尺にあわせて、なんとか間を持たせる方法を考える」という、娯楽を作る上での製作姿勢で負けてしまっている。
ガンダムブランドにあぐらをかいてしまった作品、というのが私の感想。座組、脚本や構成のミスばかりなので、素晴らしい映像の制作者たちは気の毒に思う。私は、2部と3部を観る予定は無くなった。