劇場公開日 2019年9月27日

  • 予告編を見る

「いつも最後は「ありがとう」」惡の華 R41さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0いつも最後は「ありがとう」

2024年6月5日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

中二病の心を体現化したような作品に感じた。
「思春期に苛まれるすべての若者たちに捧ぐ」とオープニングに示されるとおり、この作品は彼らの心の中を解放したものだろう。やるだけやるということがどんなことなのかを描いた作品。
そしてこの作品は、思春期に苛まれていない「クソ虫」どもには関係ないのかもしれない。
好きな女子の体操服を持ち帰ってしまうという出来心から始まるこの物語は、春日少年の心の闇をひとつひとつ表に出しながら大騒動にまで発展する。
仲村という女の子
反抗期だと見ればどこにでもいるタイプだが、物語だけに究極にデフォルメされている。
その彼女を慕おうとする春日には、中二病特有の思想が見られるが、本人は至極真面目に悩んでいる。
何が正しいのかがわからない。一つの出来事に対する思いがいくつもあって選択できない。
今まで教え込まれてきた認識や常識では仲村の言動を受け入れられないが、どうしても彼女の思想に傾倒してしまう自分の存在を否定できない。
それは父からもらった「悪の華」という本やその他の読書で学んだことで、教え込まれたものではない「新しい根源」を見つめることでしか生きる場所はないと、春日は本気で信じられるのかどうか試されている気がしてならない。
それを試しているのが仲村だ。彼女によって解放されていく心が、春日には心地いいのだ。
「僕は彼女に付いて行きたい」「でなければ、クソ虫連中と同じになってしまう」
昔も流行ったオールオアナッシングやデッドオアアライブ的発想。
中学生が荒れていた時期があった。それは金八先生の時代で、社会問題化していて、地方に広がって、若者たちは自分自身を探し回った。
心の中から社会に対する叫び声が湧き上がる事実があった。
女子に対する些細ないたずら 校舎のガラスを割ったり、教室をめちゃくちゃにしたり、性への目覚めや自分は他人とは違うという思い込み。
当時との違いは、むやみに人を傷つけないことで、問題の核を自分自身の中に見出そうとしていること。
ただそれが自分自身というよりも、出ることのできない「この街」の向こう側に答えを求めている。
家出
できなかったこと 行けなかった 無力感 いくら別の町に行っても変わることのない「自分」
佐伯は段ボール小屋で春日にフラれ火を放ったことや仲村と言い争ったことで鬱になる。彼女は病院のTVで見た夏祭りで、春日と仲村が盆踊りのやぐらを占拠し灯油を被って火を放とうとする光景を見る。
佐伯の涙は、そこまで行きつくほど真剣に生きている二人に対する羨望だったのだろうか。
「どっちの方が好き」とか言っている小便臭いガキの概念はそこには一片たりとも見つけられない。この街に対する鬱憤への報復。
そしていざというとき突き落とされた春日、一人で火だるまになろうとした仲村も、父によって阻止された。そこですべてが終わった。
高校でも当時の時間は止まったまま。出会った常盤にほのかな恋心を抱くものの、心の中を占拠しているのは仲村だ。
その事を見透かされる。見透かしたのは佐伯もだった。
佐伯は春日を好きだったが、そこまで行くことができない自分を受け入れた。だから仲村の居場所を教えたのだろう。あの日のままの春日を見てあえて「彼女も不幸にするつもり?」とけしかけ、会って話し「私からも、町からも、仲村さんからも、一生逃げていくんだね」と言ったのは、彼女なりの声援だったのだろう。
このままじゃいられない春日は、常盤と一緒に仲村を訪ねる。
波打ち際でずぶ濡れになりながら思春期の最後のあがきをした。
仲村は言葉にしなかったが、あの光景はいつも彼女が言っていたような「クソまみれのドブのような生ゴミみたい」な夕日ではなかったはずだ。
「二度と来んなよ、普通人間」 仲村の最後のセリフ
消え去った悪の華の象徴的な「目」
大人の言うことを黙って聞いても、春日と仲村のような行動をしても、結局は同じ場所にたどり着くのかもしれない。
最高に遠回りしながらたどり着いた場所は同じでも、心の赴くままに行動して経験したことは小説を書けるくらいの内容になっていた。
無駄なことなど何もない。思春期に思ったことすべてやってみろ。その経験値こそ人生だとこの作品の作り手が言っているような気がした。
電車の窓に映っていた「ありがとう駅」
それは、心の衝動を与えてくれた思春期に対する言葉なのかもしれない。

R41