「完全無欠の時間を」ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
完全無欠の時間を
ジェームズ・キャメロン『アバター』のような、映画のスペクタクル性を倍加する技巧としての3Dが導入された映画は多々あるが、受け手の主体的な介在を促す意味での3D映画はゴダール『さらば愛の言葉よ』以来ではないかと思う。
実際、ビー・ガンはキネマ旬報WEBの「中国映画が、とんでもない!ビー・ガン監督インタビュー」というインタビュー記事において、『さらば愛の言葉よ』をきっかけに3Dという技術の「映像言語」性に気が付いたと述べている。夢を単なる虚構=他人事として消費してほしくないというビー・ガンの企みは3Dという映像言語を通じて鮮やかな成就を迎えているといえるだろう。目下、3Dは浮遊という非視覚的(=感覚的)な問題を視覚的に解決する唯一の手段であるように思う。
さて、夢という題材を、断続的で暴力的な不条理・狂気を通じて描こうとする映画作家は多いが、ビー・ガンは夢をできごとの緩やかな連続体と定義する。そして劇中に語られていたように、ビー・ガンにとって夢は記憶の変形体だ。記憶は小さな点のように想起され、そこからじわじわと拡がっていくものであり、その「じわじわ」という連続性を損なわないためにワンシーン・ワンカットという過剰にも思える撮影スタイルが必然化する。カットという断絶が一つでも存在するならばそれは厳密には(一つの)夢とはいえないからだ。このことは『凱里ブルース』における45分にもわたる長回しの終結(=カット)が、主人公の、凱里という異空間からの脱却に重ねられていることからも明らかだろう。
夢の中では時空に明確な順序がない。ゆえに永遠を示す時計と儚さを示す花火が相入れる。特に、歌謡ショーの待合室でいつまでも燃え続ける花火はあらゆる物理学的矛盾が溶解する夢という地平の特異性を耽美に表している。
先述の通り、『凱里ブルース』では45分の長回しは最終的に断絶を迎え、それによって主人公は現実世界へと帰投したが、本作ではカットが最後の最後まで途切れず、主人公は終ぞ覚醒を迎えない。いつまでも終わらぬ夢に耽溺するという幕切れに、私はどこか不健康なものを感じてしまった。しかしこれも上述のインタビュー記事を読んで考えが変わった。
彼は述べる。
「今起きている変化については、僕ではない誰かが表現してゆけば良いと考えています。僕はそこにかつてあったものや、記憶や脳裏に残像として残っているものに価値があると思い、映画の中に取り入れてきました。それが自分に出来ることだと思いますし、作品を通して、自分が生活していた凱里の姿がおぼろげに立ち上がってきたと感じます(同上)」。
つまり、そもそもビー・ガンははじめから「現実に帰投すべき」という現実次元の倫理に依って映画を撮っていない。彼は自分の作家としての領分にきわめて自覚的な作家だといえる。だからこそ同一の主題を同一のメソッドで撮り続ける。文学で言うところの村上春樹のようなことをやっているわけだ。偏執ではなく練磨。そうであれば我々も安心して彼の提供する夢幻世界に没入することができる。その果てに彼が言うところの「甘美で完全無欠の時間」が出来することを心待ちにしながら。