「マリアの微苦笑の意味」マダムのおかしな晩餐会 琥珀さんの映画レビュー(感想・評価)
マリアの微苦笑の意味
色々と綺麗事を言ってもこれが人間世界の現実なんだな、と割りと静かに淡々と突きつけられる。でも、そうは言っても映画なんだから現実的ではないかもしれないけれどハッピーエンドで夢を見させてくれるのかな、と思わせておいて、最後に、ハッピーエンドは物語の中だけだよ、と締めて終わる。
欧米の階級社会・階級意識は今だに厳然として存在する、ということは聞き伝えの知識でしかありませんが、今起きているフランスのデモやヨーロッパ全体の右傾化傾向なども、日本における経済格差以上に根深い断絶がないと、あそこまでのことにはならないと思います。
なので、何の気なしに見てると鼻持ちならないと思えるマダムの言動もあの人たちの世界では、実はそれほど悪質でもないのでしょう。言葉にするかしないかの違いだけで。
日本でも表向き、階級や身分で差別するような人はほとんどいませんが、あいつのオヤジはどこそこの社長だよ、とか、◯◯大学出身、とかいう要素を人格判断の一部に、意識的かどうかはともかく取り入れているのは事実です。属性情報なしで人を見てるか、と問われたら少なくとも私は否定できません。
マリアの出自が高貴だという前提(思い込み)があるから、下品なジョークがアンバランスな魅力になるのであって、元々メイドだとわかってたら、人格まで下品だと決めつけられて、やっぱりこの晩餐会に参加する資格はない、と断じられたはずです。
愛があれば階級差なんて、と言いますが、階級差があったら、よほどの美形(階級差という障害を乗り越えてでも結ばれたくなるような)でもない限り、そもそも愛に発展する以前に相手への興味が生まれないことのほうが現実的です。だから、この映画では一目惚れ(感情移入)の起きにくいあまり美人ではない女優さんをマリアに起用し、厳しい現実を突きつけてくるのです。
ラスト、マリアのやや口角を上げたような表情は、階級上位に属する人たちが、見栄や利害関係の中での相互依存に浸かりきり、実は人として自立できていないこと、自分はもうその世界で振り回されないで済むこと、子どもとの新たな向き合い方への期待、などが入り混じった微苦笑だったのだと思います。