「何にも代えがたい成長の物語」37セカンズ talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
何にも代えがたい成長の物語
<映画のことば>
「ただいま」
「おかえり」
常に心のどこかでは「運命の37秒間」についてのわだかまりを負っていたらしい彼女が、自身のその「わだかまり」を乗り越えて成長した物語ー。
そう評したら、ピントがボケているでしょうか。本作の評としては。
上掲の映画のことばは、凡庸なセリフですけれども。
精神的には大きく成長して帰宅したユマと、それを安心して受け入れる母親との会話として、本作の中では、取り上げるに足りる十分な重さが含まれていたと思います。評論子は。
そして、(もちろん女性である)彼女の成長には、いろいろな立場の同性が関わっていたことが、大きな要素であったことは、疑いがありません。アダルト系のマンガ週刊誌の編集長をしている藤本さん、夜の大人の世界を自由に生きている舞さん、そして(反面教師としてなのですが)ユマのお母さんと、親友(?)とは言いつつ、ユマをゴーストライターとしていわば搾取していたアヤカ。
後記のとおり、胸に痛い一本でもあるのですが、それぞれの立場の女性の、それぞれの関わりが、ユマを育んでいくプロセスに、じんわりと心が温まる一本でもありました。
後記した「追記」の点も踏まえると、秀作評して誤りのない一本と思います。評論子は。
(追記)
作品の中には直接的な描写は何もないので、飽くまでも評論子の推測なのですけれども。
お母さんには、ずっと自責の念があったのだと思いまし。ユマを産んだ本人として。
その自責の念が、ユマをして「超過保護」と言わしめるほどまでお母さんは自分自身を追い込んでしてしまっていましたし、お父さんが由香を連れて家を出たのも、彼女のその自責ぶりの重苦しさに耐えかねたからではないでしょうか。
ユマのほか由香まで、そんな重苦しい環境下で成長させることが憚られたから。
お父さんとしては、本当はユマも連れて出たかったはずですが、お母さんが(その自責の念から)ユマを放さなかったー。
そして、今度は、ユマを連れ出すことができなかったお父さんの自責の念が、自身の寿命を縮めてしまう結果となってしまったとまで憶測したら、それは評論子の勝手な推測でしょうか。
たまたま37秒間の不幸な事象がユマの身の上に起きてしまっただけで、誰が悪いわけでもないのに…、
この胸の痛さは、どうしたら良いものでしょうか。
(追々記)
車イスを駆って、自在に動き回り、その点には不自由のないようでしたけれども。
ちょっとしたことで、やっぱり介添者が必要であることには、改めて思いが至りました。
自分の足で歩くことができることの幸いも、改めて噛みしめます。
(追々々記)
イ・チャンドン監督の『オアシス』が、かなり強烈な一本だった評論子でしたけれども。
本作は、「脳ミソを破壊するくらいの威力で、一括りにはできない個人を描く」という、映画comレビュアー・グレシャムの法則さんの評に衝き動かされて観ることにしたものでした。
本作がその評に寸分も違(たが)わない秀作であったことは、前記のとおりです。
鋭い評を通じて評論子の食指を動かして、良作に巡り合わせて下さったグレシャムの法則さんに、厚く感謝いたします。
末筆ながら、ハンドルネーム記して、お礼に代えたいと思います。