「奇抜だけど考えすぎ」ポップスター 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
奇抜だけど考えすぎ
ブラディコーベットは長く俳優だったが、2015年にシークレットオブモンスターという映画をつくった。
変わった映画で、賛否ではあったが、批評家筋からウケた。
うまく言えないが、神経を逆なでする不協和音が、独特だった。
ブラディコーベットは鬼才だった。
この「鬼才」は、わが国で冠されるものよりもずっと信憑性があったし、個人的にも、ある種類の才能をかんじとることができた。ただ、まだ初作なので未知数ではあった。
これが二作目である。
やはり賛否になったが、初作ほど、芳しい評価ではなかった。ただし鬼才をスポイルはしなかった。考えすぎているひとの作品という感じで、鬼才は鬼才だった。繰り返すがこの鬼才はわが国で使われている「鬼才」とは異なる。
ひとびとが「鬼才」を使うとき、もっともその因由にするのが衝撃性だと思う。
かんたんに言うと、過激度である。
穏健な作風では、「鬼才」は使われない。
そして観衆が、その「鬼才」を吟味するとき、もっとも閲する(けみする)ところは、その実意である。
つまり、その過激が、たんに観衆をこけおどしたい過激なのか、あるいは創作上の必要に迫られての過激なのか──の判定である。
現代は、未発達や、戦争から遠ざかって、無害な世界になった。
すると、概して世に「過激」はなく、過激を物語りたいならば、それが生じる題材にしなければならない。
むろん対比を目的とした物言いであって、現代にも幾らでも過激はあるし、じっしつ無害な世界なんてものはない。
ただし現代人は、むかしほどには、日常が生死と密接ではない。生死と密接でない物語は弱い。かんたんに言えば。
そこでクリエイターは過激をつくるために、アウトレイジやホラーや時代劇をやる。
ヤクザやホラー/ファンタジーや時代物であれば過激をつくれる──からだ。
いうなれば、それを仮想や過去に頼らず、現代社会に過激をつくってしまうのが、わが国の「鬼才」たちである。
日本の「鬼才」たちは、無害な世界に住んでいながら「おれたちは、こんだけ過激な世界に生きてんだぜ、すげえだろ」と言ってしまう──わけである。
そんな過激に実意があるわけがない。
且つ、それらの過激を、創作意欲から──でなく、みずからのキャリアに貫禄をつけるためにやるのが日本型の「鬼才」である。
個人的に、そう思っているので、たんに鬼才と呼んだら、ごっちゃになってしまうので、ブラディコーベットを鬼才と呼ぶのに、かくも長い説明をした。わけである。
この映画を見ると、ブラディコーベットが衝撃性にこだわっていることがわかる。
過激──というと少しニュアンスが違うが、まちがいなく意表を突こうとしている。シークレットオブモンスターもそうだったが、従来型の映画文法を外して、変わった絵にしようとしている。──ことははっきりわかる。
それらはすべってはいないが、しっかり刺さる、わけでもない。
ポップスターの内面にシンパシーを寄せたいならば、エキセントリックな技法=ブラディコーベットの持ち味はむしろ裏目だった。と思う。
主人公は衝撃的で不幸な過去を背負っているが、物語は前向きな主題を持っている。
が、映画は要所要所、実験性が介入してくる。
その意図的な不協和音が、うまくいっている──とは思えない。
近年A Star Is Born、Bohemian Rhapsody、Judy、Rocketman・・・この主題が目白押しだったこともあって、さらに本作が陰った。
だが本作のナタリーポートマンはとても巧い。演技云々されるタイプの作品ではないこともあって、無駄に巧かった。
エピローグまるまる使ったパフォーマンスは微妙に感じるところもあった。
が、特定モデルのない、且つ、誰かと被ってしまわないポップスターを0ベースから創ったのなら、まことに苦労をしのばせる偶像だった。
映画中楽曲はSiaが提供しているが、歌唱が違うこともあり、ほとんどSiaは感じなかった。
ところでこのVox Lux、ルーニーマーラが降板になってナタリーポートマンになった──そうである。
個人的印象──なだけ、かもしれないが、ナタリーポートマンて、やたら作品に恵まれていない女優──だと思う。
レオンを除けば、思い浮かべるのはブラックスワンしかない。ブラックスワンは、ブラックスワンさえあればいい──っていうような傑出作だったけれど、名の威光に対して代表作が少なすぎる──と感じてしまう女優である。
なんとなく、なんとなくだが、かのじょのフェミニストな立脚点は、広汎な作品への出演を阻害しているのかもしれない──と思うことがある。
ただ、後感だが、この役でルーニーマーラというのは、ぜんぜん想像できなかった。