「ささげられる弔辞と祈り」僕はイエス様が嫌い きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
ささげられる弔辞と祈り
早世した友人にささげられた映画だったのですね・・
エンドタイトルにその小さな“告白”を見て、この映画が作られた動機を知った思いがしました。
22歳の監督。
22歳って、まだ生々しく子どもの頃の記憶が息づいていている最後の季節だと思います。
その時期を過ぎてしまうと、大人の人生は荒波にもまれるばかり。生きるに忙しくて毎日の刺激も強すぎるから、子どもの頃を振り返る暇もない。
そんなわけで、老境にさしかかる日まで、私たちはかつて自分が子どもであったことを想起するチャンスを失ってしまうのです。
ふと思い出してはいても、その思いはとり紛れて意識の底に隠されてしまうのです。
・忘れないうちに、
・忘れたくない友だちのことを、
奥山監督は大人の生活に突入する前に、彼自身の絵日記のようにそれを映画に残したのでしょう。
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僕は、五十になった時に終活を始めました。
終活を始めたその1年のうちにやり残していた課題をぜんぶ片付けました。
それは子どもの頃に犯した過ちのひとつひとつを、(覚えている限りではありますが)、本人に直接会って気持ちを伝え、説明し、先ず詫びてから相手の気持ちを聞かせてもらうことでした。
心に刺さったままの棘を、そのままに自分の人生を終えてはいけないと思ったからです。
日本中を回りました。
加害者の自分がこんなに後ろめたい過去を抱えて子どもの時以来数十年の時を生きているのだから、僕によって痛みを受けた人もきっとそうであるはずだと思って。
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ユラは断りなく帰宅してしまい、残されたカズマはひとり死にます。
とぼとぼ歩いていたユラは早足になり、走り出す。
あそこは、なんの説明もいらないユラの心のシーン。
奥山監督が映画に託した心は、早世した友人カズマに届いたでしょうか?
すでに亡くなっている友人に届けたかった思いは、もう後の祭りでその子に届かずとも、でもユラの弔辞として、そして祈りとして、この素朴なフイルムに実を結んだのだと思いました。
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【ボーっとしてわからないこと】
なぜユラは祖母の家に引っ越したのか。
以前の東京での暮らしでユラには何が起こったのか。
なぜ両親も当たり前のようにそこに同居しているのか。
祖母の家の天井の節穴が怖かったように、あの障子の穴も記憶の中の小さなかけらなのか・・
― いろいろたくさんの、よくわからない事情があるようで、混沌とした少年期の記憶の再生が実にうまく表現されている映画でしたね。
自分を幼少期に連れ戻してくれる、不思議な余韻を与えられました。
今晩は。
魅惑的なお誘い、有難うございます。
只、仕事、読書、音楽、映画、家人との語らい(順位は時折変わります)で日々過ごす中、これ以上愉しみが増えると如何にショート・スリーパーとは言え、厳しいので現状維持で行かせて頂きたく。
更に今夏は例年にはなかったマスク疲労があり(マスクしながら、現場で1時間喋るのは現時点ではちょっときつい・・)、すいません・・。
> 早世した友人にささげられた映画だったのですね・・
そうだったのか。
> 老境にさしかかる日まで、私たちはかつて自分が子どもであったことを想起するチャンスを失ってしまうのです。
よくわかります。自分もそうだから。監督が、今撮った意味が、きりんさんのおかげでわかった気がします。